クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

狭間の花崎城(24) ―子ども昔語り(104)―

2007年11月09日 | 子どもの部屋
天正2年(1574)、北条氏繁の羽生侵攻で自落した花崎城(埼玉県加須)。
自落とは自ら落城してしまうことです。
このことは、北条氏繁が5月4日付の白河義綱へ宛てた書状の中に、

 然而羽生被寄馬候処、近年向岩付取立候号花崎地、即時自落
 (羽生へ馬を寄せたところ、近年岩付城に取り立てた花崎城が即自落した)

という一文からわかります。
近年岩付城(同県さいたま市岩槻)の向かい城として取り立てられた花崎城は、
氏繁が羽生へ陣を寄せたところ、自落したという内容です。
この前文に上杉謙信の羽生城救援失敗について触れているので、
天正2年のものと考えられます。

向い城とは敵城に備えるための軍用施設。
この書状では岩付城の向かい城となっていますが、
おそらくそれは“鷲宮城”(同県鷲宮)でしょう。
鷲宮城は反上杉派であり、鷲宮神社管理の権限は北条に移っていることから、
上杉謙信あるいは羽生城主木戸忠朝は、
北条支配圏を牽制するために花崎城を取り立てたと思われます。

「羽生に馬を寄せる」というのは、
天正2年4月に羽生救援へ向かった上杉謙信と戦うべく、
羽生へ出陣した様子を伝えるものでしょう。
このとき“北条氏政”も羽生に着陣し、
雪解け水で増水した利根川を挟んで謙信と対峙しています。

この「馬を寄せる」ということから、
羽生城が北条に属したという説がありますが、
氏政や氏繁は本格的な羽生城攻撃を行っていません。
上杉謙信や羽生城に圧力をかけ、自落を促していたものと思われます。
すぐ隣には北条方の忍城主(同県行田)成田氏が所在し、
かつて援軍に駆けつけた“太田資正”はすでに岩付城にはいません。
周囲を敵に囲まれ、兄“広田直繁”は館林で謀殺され、
羽生城はもはや滅亡の一途を辿っていました。
そこに兵を割くよりも、関宿城攻略が先決だったのです。

ゆえに籠城戦の構えを見せる羽生城兵に対し、
牽制するだけで総攻撃の命は下されなかったのでしょう。
北条氏政と氏繁の羽生出陣に、
小城の花崎城は捨てられ、城兵は羽生城に移って籠城したと思われます。

しかし、謙信が撤退すると、氏政・氏繁は関宿城攻略へと移っていきました。
謙信の救援失敗により落城は時間の問題です。
以後、花崎城が上杉方の支城として取り立てられることはありませんでした。
(「狭間の花崎城(25)」に続く)

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