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その後、羽生領は忍城主成田氏の支配を受けました。
城代には成田一族の者が入っています。
そのため、前城主木戸忠朝の供養もままならなかったでしょう。
いつの時代の話かわかりませんが、
城主の墓碑は構え堀に投げ込まれてしまったという口碑も伝えられています。
「成田氏が羽生を支配しているときは、おおっぴらに供養することはできなかったんだよ」
と、先生は言います。
木戸氏の家臣たちは謙信に引き取られ、羽生を撤退。
残った城兵もいれば、新たに成田氏に仕える者もいました。
豊臣秀吉による小田原征伐まで戦乱は続いていたものの、
羽生・関宿両城の陥落によって利根川沿線をめぐる上杉謙信と後北条氏の攻防戦は一応の決着がつけられ、
羽生には比較的平穏なときが訪れました。
天正18年(1590)の小田原落城まで、羽生を舞台に目立った戦は起きていません。
もし後北条氏の支配を最初から受けていれば、
謙信による攻撃はあってもわりと平穏だったことが考えられます。
後北条氏への従属を願う領民もいたでしょう。
しかし、木戸忠朝は敵の激しい攻撃に危うく難を逃れても、
謙信への忠節を変えようとはしなかったのでした。
「広田直繁や木戸忠朝は領民に嫌われていたんでしょうか?」
わたしはふと思いついて訊いてみます。
確実に羽生城主のものとわかる供養塔や墓碑がないのは、
生前に領民の怒りを買っていたからではないかと……。
「そんなことはないと思うよ」
冨田先生は朗らかに答えました。
「孤立無援になっても謙信に仕えることができたんだから、慕われていたんだろうで」
「最後の最後まで?」
「墓碑がないのは成田氏がいたもんだから、建てたくても建てられなかったんだよ」
先生はあくまでも肯定的に木戸氏を捉えます。
現在のところ、領民から見た羽生城主の記録は残っていません。
彼らが何を考え、広田直繁や木戸忠朝たちをどのように見ていたのか不明です。
(「埋もれた男“広田直繁”(21)」に続く)
※画像は「伝羽生城主墓碑」です。
源長寺(羽生市藤井上組)本堂の裏に所在。
城代には成田一族の者が入っています。
そのため、前城主木戸忠朝の供養もままならなかったでしょう。
いつの時代の話かわかりませんが、
城主の墓碑は構え堀に投げ込まれてしまったという口碑も伝えられています。
「成田氏が羽生を支配しているときは、おおっぴらに供養することはできなかったんだよ」
と、先生は言います。
木戸氏の家臣たちは謙信に引き取られ、羽生を撤退。
残った城兵もいれば、新たに成田氏に仕える者もいました。
豊臣秀吉による小田原征伐まで戦乱は続いていたものの、
羽生・関宿両城の陥落によって利根川沿線をめぐる上杉謙信と後北条氏の攻防戦は一応の決着がつけられ、
羽生には比較的平穏なときが訪れました。
天正18年(1590)の小田原落城まで、羽生を舞台に目立った戦は起きていません。
もし後北条氏の支配を最初から受けていれば、
謙信による攻撃はあってもわりと平穏だったことが考えられます。
後北条氏への従属を願う領民もいたでしょう。
しかし、木戸忠朝は敵の激しい攻撃に危うく難を逃れても、
謙信への忠節を変えようとはしなかったのでした。
「広田直繁や木戸忠朝は領民に嫌われていたんでしょうか?」
わたしはふと思いついて訊いてみます。
確実に羽生城主のものとわかる供養塔や墓碑がないのは、
生前に領民の怒りを買っていたからではないかと……。
「そんなことはないと思うよ」
冨田先生は朗らかに答えました。
「孤立無援になっても謙信に仕えることができたんだから、慕われていたんだろうで」
「最後の最後まで?」
「墓碑がないのは成田氏がいたもんだから、建てたくても建てられなかったんだよ」
先生はあくまでも肯定的に木戸氏を捉えます。
現在のところ、領民から見た羽生城主の記録は残っていません。
彼らが何を考え、広田直繁や木戸忠朝たちをどのように見ていたのか不明です。
(「埋もれた男“広田直繁”(21)」に続く)
※画像は「伝羽生城主墓碑」です。
源長寺(羽生市藤井上組)本堂の裏に所在。
当家ではおよそ350年前の墓石が最古ですが、出家された方なので、文字はしっかり残っています。石の硬さにもよりますが、より自然石に近いものでしたら文字は残るものみたいですよ。石屋さんに教えて頂きましたが、感熱紙を使い日光の日差しで文字を浮き出させる方法があるみたいです。理論的に考えても確かに有効な方法だと思います。
もし、それで木戸家の家紋など分かれば新発見ですね。興味津々です。
戒名のつけ方も色々あり、諡にもランクがあります。殿様なら、それなりの文字を使っている筈なので、それが分かればおよその見当はつくのですが…。
時間があれば、見に行ってみます。
それでは。
おはようございます。
実はこの石塔、バラバラの石を組み合わせて建っている可能性が大です。
宝篋印塔とも五輪塔とも区別がつかないのはそのためです。
五輪塔で言うなら「地」の部分に薄く文字があるようなのですが、
摩耗していて判読できない状態です。
感熱紙でぜひ試してみたいですね(^^)
あと、これとは違う古塔があって、
それは構え堀に投げ込まれてしまったという口碑が伝わっています。
本来の羽生城主の墓碑はいま地中かもしれませんね。
1度でいいから「本物」を見てみたいものです。
それと、木戸氏の家紋は『関東幕注文』には「梅之紋」「かたはミ」とあります。
以前の源長寺の瓦は梅鉢紋が施されていたそうですが、現在はなぜか三階菱です。
城跡に鎮座する東谷天神社は梅鉢なのに……。
何かと首を傾げてしまうものばかりですが、
源長寺が羽生城ゆかりの寺であることは間違いありません。
当時は武装化し、砦そのものだったと思います。
末裔さんの目にこの寺がどう映るのか楽しみです(^_^)