不動岡図書館は、加須の不動尊こと總願寺の裏手にありました。
2004年に千方神社(加須市中央)の近くに中央図書館ができ、
両館はしばらく併存していましたが、2009年に不動岡図書館が廃止。
その跡地には別の公共施設が建っています。
いまそこを歩くと、建物以外は昔の名残を留めています。
すなわち、建物西側の小さな公園、東側の池は変わっておらず、
畑和元埼玉県知事の銅像も現在です。
在りし日の不動岡図書館の姿を思い浮かべることができるでしょう。
図書館と一言で言ってもその歴史はいささか複雑です。
加須市内では大正時代に各町村でそれぞれ設置されました。
小学校の一室に設けられることが多く、自ずと蔵書数も限られたようです。
太平洋戦争以後は学校の図書室として吸収。
その後、昭和25年に移動図書館の巡回が開始され、
同28年に加須町公民館図書室が設置されました。
同29年には加須市立図書館と改称。
同46年に現在の中央図書館の場所に存在した市民福祉会館の5階に移転します。
不動岡へ移るのは同62年のことです
実は、不動岡図書館の建物は、移設のために建設されたわけではありません。
元々は、昭和41年に埼玉県立加須青年の家として建てられた施設です。
その役目を終え、同62年に加須市立図書館(以降、不動岡図書館に統一)として幕を開けるのです。
不動岡図書館の近くには、總願寺をはじめ不動岡高校やいちっ子地蔵があり、
拙著『古利根川奇譚』(まつやま書房)にも図書館のことを少しだけ触れました。
受付カウンターの横にあった部屋は郷土資料室です。
2階の学習室と比べて利用者はさほどおらず、籠るには最適な場所だったと思います。
入室してすぐに目に飛び込んできたのは『新編埼玉県史』。
羽生市の藍染を使用した藍色の背表紙は圧巻でした。
そのほか、『越佐史料』を初めて手にしたのもそこで、
確か松村氏の蔵書印が捺されていたのを覚えています。
記憶は曖昧ですが、志多見の松村勝氏の蔵書だった気がします。
羽生城研究者の冨田勝治氏に論文を書くことを勧めた人物です。
冨田氏の初期研究では『越佐史料』を多く参考にしており、
松村氏と同書について話す機会があったのではないでしょうか。
なお、不動岡図書館には和綴じの『関八州古戦録』があったのも印象的でした。
羽生城に関心を持ち始めた頃に手にした同書はとても刺激的で、
「歴史」が決して中央政権に限るものではないことを感じるのに十分だったのです。
(ただし、記述を鵜呑みにするには注意が必要です)
そのほか、加須市史編纂室が蔵していた『寛政重修諸家譜』、
白い背表紙が眩しい分厚い上下巻構成の『日本民俗大辞典』、
冨田氏が編纂に携わった『鷲宮町史』、
羽生の寺院住職で羽生第一高校の教諭の出井氏が序を書いている『埼玉現代文学事典』、
南の窓側で黒い背表紙が並んでいた『国史大系』、
本について語る本『本と人の歴史事典』、
各種調査報告書や西向きの書き物机の上に並んでいた条例集などなど、
一般書架とはどこか違うたくさんの本との出会いがありました。
将来はこういう資料を使って仕事をしてみたいと思ったことは数知れず。
かつ、図書館で使うのではなく、手に入れたいと思う本もたくさんありました。
職員も親切でしたし、埼玉文学賞を受賞したときにお祝いの言葉をかけてくれた方もいます。
元々図書館として作られた建物ではないためさほど大きくはありませんでしたが、
風情ある不動岡図書館は知的な空気に包まれていたのです。
疲れれば、池を眺めたりベンチに座ったり、
少し足を伸ばして總願寺の境内を歩く。
不動岡図書館のすぐ脇を流れているのは南方用水路で、
ときたま大きなコイが泳いでいるのが見えました。
不動岡公園の入り口のところに小さな商店があり、
ほんの一時期焼きそばの旗が立っていたことがあります。
館内でその焼きそばについて話している声が聞こえましたが、
結局僕は食べそこなってしまいました。
17、8歳、不動岡公園のベンチで広げた京極夏彦の『狂骨の夢』やダンテの『神曲』、
あるいは英検の教科書など、つい昨日のことのようです。
不動岡図書館で18時まで原稿を書いたあと、
中央図書館へ移って20時まで続きを書き、
さらに騎西図書館の入る生涯学習センターまで自転車を走らせて、
22時までテーブル机に向かったこともありました。
何かに追い立てられ、叶えたい想いがあったからできたのかもしれません。
先述のとおり、2009年に不動岡図書館は幕を閉じました。
惜しまれながらの閉館だったと思います。
館内の一室、夢や野望を抱きながら過ごした人はきっとたくさんいたはずです。
2階の学習室で未来を思い描く学生も少なくなったでしょう。
そんな不動岡図書館はつわものどもが夢の跡となり、
現在は不動岡コミュニティセンターとして新しい時が刻まれています。
2004年に千方神社(加須市中央)の近くに中央図書館ができ、
両館はしばらく併存していましたが、2009年に不動岡図書館が廃止。
その跡地には別の公共施設が建っています。
いまそこを歩くと、建物以外は昔の名残を留めています。
すなわち、建物西側の小さな公園、東側の池は変わっておらず、
畑和元埼玉県知事の銅像も現在です。
在りし日の不動岡図書館の姿を思い浮かべることができるでしょう。
図書館と一言で言ってもその歴史はいささか複雑です。
加須市内では大正時代に各町村でそれぞれ設置されました。
小学校の一室に設けられることが多く、自ずと蔵書数も限られたようです。
太平洋戦争以後は学校の図書室として吸収。
その後、昭和25年に移動図書館の巡回が開始され、
同28年に加須町公民館図書室が設置されました。
同29年には加須市立図書館と改称。
同46年に現在の中央図書館の場所に存在した市民福祉会館の5階に移転します。
不動岡へ移るのは同62年のことです
実は、不動岡図書館の建物は、移設のために建設されたわけではありません。
元々は、昭和41年に埼玉県立加須青年の家として建てられた施設です。
その役目を終え、同62年に加須市立図書館(以降、不動岡図書館に統一)として幕を開けるのです。
不動岡図書館の近くには、總願寺をはじめ不動岡高校やいちっ子地蔵があり、
拙著『古利根川奇譚』(まつやま書房)にも図書館のことを少しだけ触れました。
受付カウンターの横にあった部屋は郷土資料室です。
2階の学習室と比べて利用者はさほどおらず、籠るには最適な場所だったと思います。
入室してすぐに目に飛び込んできたのは『新編埼玉県史』。
羽生市の藍染を使用した藍色の背表紙は圧巻でした。
そのほか、『越佐史料』を初めて手にしたのもそこで、
確か松村氏の蔵書印が捺されていたのを覚えています。
記憶は曖昧ですが、志多見の松村勝氏の蔵書だった気がします。
羽生城研究者の冨田勝治氏に論文を書くことを勧めた人物です。
冨田氏の初期研究では『越佐史料』を多く参考にしており、
松村氏と同書について話す機会があったのではないでしょうか。
なお、不動岡図書館には和綴じの『関八州古戦録』があったのも印象的でした。
羽生城に関心を持ち始めた頃に手にした同書はとても刺激的で、
「歴史」が決して中央政権に限るものではないことを感じるのに十分だったのです。
(ただし、記述を鵜呑みにするには注意が必要です)
そのほか、加須市史編纂室が蔵していた『寛政重修諸家譜』、
白い背表紙が眩しい分厚い上下巻構成の『日本民俗大辞典』、
冨田氏が編纂に携わった『鷲宮町史』、
羽生の寺院住職で羽生第一高校の教諭の出井氏が序を書いている『埼玉現代文学事典』、
南の窓側で黒い背表紙が並んでいた『国史大系』、
本について語る本『本と人の歴史事典』、
各種調査報告書や西向きの書き物机の上に並んでいた条例集などなど、
一般書架とはどこか違うたくさんの本との出会いがありました。
将来はこういう資料を使って仕事をしてみたいと思ったことは数知れず。
かつ、図書館で使うのではなく、手に入れたいと思う本もたくさんありました。
職員も親切でしたし、埼玉文学賞を受賞したときにお祝いの言葉をかけてくれた方もいます。
元々図書館として作られた建物ではないためさほど大きくはありませんでしたが、
風情ある不動岡図書館は知的な空気に包まれていたのです。
疲れれば、池を眺めたりベンチに座ったり、
少し足を伸ばして總願寺の境内を歩く。
不動岡図書館のすぐ脇を流れているのは南方用水路で、
ときたま大きなコイが泳いでいるのが見えました。
不動岡公園の入り口のところに小さな商店があり、
ほんの一時期焼きそばの旗が立っていたことがあります。
館内でその焼きそばについて話している声が聞こえましたが、
結局僕は食べそこなってしまいました。
17、8歳、不動岡公園のベンチで広げた京極夏彦の『狂骨の夢』やダンテの『神曲』、
あるいは英検の教科書など、つい昨日のことのようです。
不動岡図書館で18時まで原稿を書いたあと、
中央図書館へ移って20時まで続きを書き、
さらに騎西図書館の入る生涯学習センターまで自転車を走らせて、
22時までテーブル机に向かったこともありました。
何かに追い立てられ、叶えたい想いがあったからできたのかもしれません。
先述のとおり、2009年に不動岡図書館は幕を閉じました。
惜しまれながらの閉館だったと思います。
館内の一室、夢や野望を抱きながら過ごした人はきっとたくさんいたはずです。
2階の学習室で未来を思い描く学生も少なくなったでしょう。
そんな不動岡図書館はつわものどもが夢の跡となり、
現在は不動岡コミュニティセンターとして新しい時が刻まれています。
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