記憶は、エピソードのような一幕として残っているのがほとんどではないでしょうか。
数時間あるいは数分の断片的なものが残っている。
まるで詩のようかもしれません。
時系列で描写されることの多い小説とは異なり、
切り取られている一つ一つの出来事。
だから、忘れていることも多いのでしょう。
出来事は覚えていても、そのときどんな時系列のもとにあったのか、
いつの間にか時間は圧縮されています。
だから、そのときどんな精神状態で、誰が不在で、どんなものが間近に迫り、
何を見て、どこを目指して過ごしていたのか、など、
形に残らないそれらは、時間の流れとともに自然と忘れていってしまうものです。
さて、「百瀬、こっちを向いて」は中田永一氏の小説です。
2014年には映画化もされました(舞台化もされたそうな)。
ジャンルは恋愛小説。
主人公“相原ノボル”と“百瀬陽”は「恋人」として演技し、
仮面をかぶって過ごしながらもやがて恋を知り、あるいは失い、
それぞれの想いが交錯しながら進んでいきます。
小説と映画では内容がいささか異なります。
僕はまだ映画を観ていませんが、シナリオは読みました。
結末が異なるとはいえ、
ノボルは百瀬に対してまなざしを変えていくことは共通しています。
一方、百瀬の感情ははっきりとは見えません。
ノボルに真っ直ぐな視線を向けていないことは確かでしょう。
いつも別のところを見ています。
その多くは好きな先輩「瞬」のこと。
屋上に登れば、「雲以外になんにもない」空よりも下を見つめる百瀬。
映画では、30歳のノボルは作家になっています。
作家として初めて世に出した作品のタイトルは『初恋』。
経験に基づくものではないと言っていますが、
百瀬を過ごした季節がモチーフになっている可能性は否めません。
百瀬が全てではないにせよ、
一緒に重ねた時間が彼を「作家」へ導かせたことは想像に難くないでしょう。
シナリオを手がけた狗飼恭子氏は、
「初恋から自由になる瞬間を描こうと思った」と述べています(「シナリオ」2014年6月号、日本シナリオ作家協会)。
ノボルは小説を書くことで、百瀬への恋を精算したとも読み取れます。
「百瀬、こっちを向いて。」の主要人物は4人です。
すなわち、ノボル、百瀬、宮崎瞬、神林徹子。
彼らのそれぞれが影響し合っています。
そのときの選択や人間関係が、
将来の職業や生き方、関係に結びついていると言っても過言ではありません。
一緒に過ごしたのはほんのわずかな時間だったはずです。
でも、彼らのそれぞれの存在と出来事が、未来に大きな意味を帯びています。
そんな「百瀬、こっちを向いて。」(シナリオ)からのコトノハ。
(※同作品の結末に抵触しています)
徹子「(前略)卒業してからもいろいろあったけど、でも乗り越えられたのはあの頃があったからだと思う」
ノボル「あの頃」
徹子「そう」
ノボル「あの頃が、楽しかったですか? それとも、……」
徹子「どっちも。相原くんは?」
ノボル「……、どっちも」
もちろん、4人全てがハッピーエンドではありません。
傷付く者もいれば、気持ちを吹っ切る者もいます。
そのそれぞれが、まるで伏線のようにその後の人生につながっていくのです。
いま過ごしている現実が、
未来においてどんな歴史的意義を持つかなどわからないものです。
その意義を見い出すには、時間の洗礼が必要なのでしょう。
大切に思えても、案外すぐに忘れてしまうもの。
逆に、重要視せずともかえって記憶に留まり続けているものもあります。
4人にとって、その期間がのちにどれほど影響を及ぼすかなど、誰にもわからなかったはずです。
人は生きた時間の分だけ、過去という「歴史」を背負っています。
過去と現実は断絶されるものではありません。
「現実」は積み重ねられた「歴史」の延長線上に存在し、
未来もその向こうへと続いています。
「現実」を肌で捉え、未来へまなざしを向けるには、
過去という歴史が必要です。
未来もまた、歴史を必要としているのでしょう。
でも、人は忘れていく生きもの。
全てを記憶することは不可能です。
忘却は、生きていく上で必要なのかもしれません。
どんな出来事が重要か否かという捉え方をするつもりはありません。
ただ、時間の洗練を受け、強く心に残っている人・出来事もあれば、
滅多に思い出さないものなど、それぞれ差異はあります。
人との出会いは不思議なものです。
もしも出会うのが数年(いや数日?)早かったり遅かったりしたならば、
その存在は全く別のものになったはず。
わずかな時間でも、そのとき、その場所で出会ったからこそ、
強く影響を受けるのでしょう。
いつもどこか遠くを見ている百瀬。
季節が移り変わり、離れ離れになっても、
ノボルはこっちを向いてほしいと願い続けていたように思えます。
一方、百瀬にとってノボルはどんな風に見え、どんな存在だったのでしょうか。
それはノボルの視点である以上、解くことのできない謎です。
その季節にノボルがいたことは、彼女にとってどんな意義があったのか?
その瞳にはどのように映っていたのか……?
ノボルにとって、百瀬は「青春」の象徴と言ってもいいでしょう。
映画では30歳になっている彼は、
もはや「青春」は遠い季節と言えます。
あるいは、ちょうど終わる頃でしょうか。
記憶の場所をなぞっても、どこにも百瀬はいません。
作家になったノボルは、
ノヴァーリスの小説『青い花』を題材にした次回作を構想しているようです。
シナリオでは、
「一番はかないものはなにか?」「不当に所有することよ」
という引用文が2度登場します。
狗飼氏が言う「初恋からの自由」は何を指すのかわかりません。
少なくとも、全てを忘れることと同義ではないように思います。
青春が終わり、大人になったノボルは、
これまでとは別の視点や立場で、百瀬やその季節を見つめていくのかもしれません。
遠ざかり、切り取られた断片として残る記憶たち。
ときには懐かしく、ときには寂しく、
ときには痛みを伴うこともあるでしょうか。
そんな詩のような記憶を抱え、ノボルはこれから言葉を紡いでいく気がします。
「こっちを向いて」という想いを胸に。
数時間あるいは数分の断片的なものが残っている。
まるで詩のようかもしれません。
時系列で描写されることの多い小説とは異なり、
切り取られている一つ一つの出来事。
だから、忘れていることも多いのでしょう。
出来事は覚えていても、そのときどんな時系列のもとにあったのか、
いつの間にか時間は圧縮されています。
だから、そのときどんな精神状態で、誰が不在で、どんなものが間近に迫り、
何を見て、どこを目指して過ごしていたのか、など、
形に残らないそれらは、時間の流れとともに自然と忘れていってしまうものです。
さて、「百瀬、こっちを向いて」は中田永一氏の小説です。
2014年には映画化もされました(舞台化もされたそうな)。
ジャンルは恋愛小説。
主人公“相原ノボル”と“百瀬陽”は「恋人」として演技し、
仮面をかぶって過ごしながらもやがて恋を知り、あるいは失い、
それぞれの想いが交錯しながら進んでいきます。
小説と映画では内容がいささか異なります。
僕はまだ映画を観ていませんが、シナリオは読みました。
結末が異なるとはいえ、
ノボルは百瀬に対してまなざしを変えていくことは共通しています。
一方、百瀬の感情ははっきりとは見えません。
ノボルに真っ直ぐな視線を向けていないことは確かでしょう。
いつも別のところを見ています。
その多くは好きな先輩「瞬」のこと。
屋上に登れば、「雲以外になんにもない」空よりも下を見つめる百瀬。
映画では、30歳のノボルは作家になっています。
作家として初めて世に出した作品のタイトルは『初恋』。
経験に基づくものではないと言っていますが、
百瀬を過ごした季節がモチーフになっている可能性は否めません。
百瀬が全てではないにせよ、
一緒に重ねた時間が彼を「作家」へ導かせたことは想像に難くないでしょう。
シナリオを手がけた狗飼恭子氏は、
「初恋から自由になる瞬間を描こうと思った」と述べています(「シナリオ」2014年6月号、日本シナリオ作家協会)。
ノボルは小説を書くことで、百瀬への恋を精算したとも読み取れます。
「百瀬、こっちを向いて。」の主要人物は4人です。
すなわち、ノボル、百瀬、宮崎瞬、神林徹子。
彼らのそれぞれが影響し合っています。
そのときの選択や人間関係が、
将来の職業や生き方、関係に結びついていると言っても過言ではありません。
一緒に過ごしたのはほんのわずかな時間だったはずです。
でも、彼らのそれぞれの存在と出来事が、未来に大きな意味を帯びています。
そんな「百瀬、こっちを向いて。」(シナリオ)からのコトノハ。
(※同作品の結末に抵触しています)
徹子「(前略)卒業してからもいろいろあったけど、でも乗り越えられたのはあの頃があったからだと思う」
ノボル「あの頃」
徹子「そう」
ノボル「あの頃が、楽しかったですか? それとも、……」
徹子「どっちも。相原くんは?」
ノボル「……、どっちも」
もちろん、4人全てがハッピーエンドではありません。
傷付く者もいれば、気持ちを吹っ切る者もいます。
そのそれぞれが、まるで伏線のようにその後の人生につながっていくのです。
いま過ごしている現実が、
未来においてどんな歴史的意義を持つかなどわからないものです。
その意義を見い出すには、時間の洗礼が必要なのでしょう。
大切に思えても、案外すぐに忘れてしまうもの。
逆に、重要視せずともかえって記憶に留まり続けているものもあります。
4人にとって、その期間がのちにどれほど影響を及ぼすかなど、誰にもわからなかったはずです。
人は生きた時間の分だけ、過去という「歴史」を背負っています。
過去と現実は断絶されるものではありません。
「現実」は積み重ねられた「歴史」の延長線上に存在し、
未来もその向こうへと続いています。
「現実」を肌で捉え、未来へまなざしを向けるには、
過去という歴史が必要です。
未来もまた、歴史を必要としているのでしょう。
でも、人は忘れていく生きもの。
全てを記憶することは不可能です。
忘却は、生きていく上で必要なのかもしれません。
どんな出来事が重要か否かという捉え方をするつもりはありません。
ただ、時間の洗練を受け、強く心に残っている人・出来事もあれば、
滅多に思い出さないものなど、それぞれ差異はあります。
人との出会いは不思議なものです。
もしも出会うのが数年(いや数日?)早かったり遅かったりしたならば、
その存在は全く別のものになったはず。
わずかな時間でも、そのとき、その場所で出会ったからこそ、
強く影響を受けるのでしょう。
いつもどこか遠くを見ている百瀬。
季節が移り変わり、離れ離れになっても、
ノボルはこっちを向いてほしいと願い続けていたように思えます。
一方、百瀬にとってノボルはどんな風に見え、どんな存在だったのでしょうか。
それはノボルの視点である以上、解くことのできない謎です。
その季節にノボルがいたことは、彼女にとってどんな意義があったのか?
その瞳にはどのように映っていたのか……?
ノボルにとって、百瀬は「青春」の象徴と言ってもいいでしょう。
映画では30歳になっている彼は、
もはや「青春」は遠い季節と言えます。
あるいは、ちょうど終わる頃でしょうか。
記憶の場所をなぞっても、どこにも百瀬はいません。
作家になったノボルは、
ノヴァーリスの小説『青い花』を題材にした次回作を構想しているようです。
シナリオでは、
「一番はかないものはなにか?」「不当に所有することよ」
という引用文が2度登場します。
狗飼氏が言う「初恋からの自由」は何を指すのかわかりません。
少なくとも、全てを忘れることと同義ではないように思います。
青春が終わり、大人になったノボルは、
これまでとは別の視点や立場で、百瀬やその季節を見つめていくのかもしれません。
遠ざかり、切り取られた断片として残る記憶たち。
ときには懐かしく、ときには寂しく、
ときには痛みを伴うこともあるでしょうか。
そんな詩のような記憶を抱え、ノボルはこれから言葉を紡いでいく気がします。
「こっちを向いて」という想いを胸に。
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