クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

天正11年、洪水で古河公方の姫も避難した? ―おうち戦国―

2021年02月18日 | 戦国時代の部屋
おうち時間、資料を介して訪れる戦国時代。

天明3年(1783)の浅間山の噴火により利根川の河床はあがり、
洪水の発生率が上がるようになりました。
もちろん、それ以前に洪水が皆無だったわけではありません。
戦国時代にも洪水は起こっています。

中でも、天正11年(1583)の洪水は大きな被害をもたらしました。
関東の将軍こと古河公方の御座所古河城(茨城県古河市)も大水に見舞われます。
足利義氏の娘である氏姫は、川が満水になる前に栗橋城(同県五霞町)に避難。
が、城は大水に持ちこたえられそうもなかったのか、
「新堤」を切るという手段を採っています。

また、古河城近辺の堤をはじめ、関宿、高柳、柏戸などで破堤しました。
「新堤」も押し切られ、交通も遮断。
猿島もまた冠水に見舞われ、此度の大水は20年以来の規模だったと、
古河公方家の奉公人たちは8月8日付で北条氏照に報告するのでした(「喜連川文書」)。

 (前略)一、此度洪水、当口之儀廿ヶ年巳来無之由候、栗橋嶋之御事、御堅固候、満水已然向栗橋へ、御姫君様被移御座候、奇特之御仕合、布美被走廻候、(中略)御当城之儀、堤涯分雖相拘候、大水之間、不及了簡、新堤押切申候、(中略)近辺之堤共始、関宿・高柳・柏戸、其外悉切候、不大形洪水、郷損不及是非為体候、幸嶋之事、野水近年無之大水之間、同前之由申来候(後略)

この文書では、具体的な河川名は記されていません。
ただ、登場する地名から、利根川や渡瀬川、思川などが氾濫したことが推測されます。
もし上空から古河城を中心に見下ろせば、
広大な湖が出現したような光景だったのかもしれません。

このときの民衆の動きは不明です。
「郷村」も被害を受けており、
民衆は避難生活を余儀なくされたはずですが、その具体的な情報は見えないのです。
高台に避難するか、あるいは氏姫のように別の場所へ移ったのでしょうか。

現代ならば、自衛隊による救助活動があります。
仮に、天正11年当時に救援部隊があったとしても、
交通は遮断されており、現地へ赴くのも困難だったでしょう。
記録には書かれていない大きな被害があったことは言うまでもありません。

災害は忘れた頃にやってくると言います。
もちろん、忘れているわけではなく、
災害の教訓を生かして備えに力を注ぎます。
中世においても同様で、先の資料に見える「新堤」からは、
事前に大水に備えて堤を築いていたことがうかがえます。

しかし、それを上回る災害が起こることはしばしばです。
天正11年の大水では、新堤を自ら切るという手段を選ばなければなりませんでした。
苦渋の決断だったかもしれません。
氾濫した川は、人々の事前の備えを無常に流したことでしょう。

※最初の画像は栗橋城(茨城県五霞町)
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