――弘治2年(1556)
大河ドラマ「風林火山」で27歳の“長尾景虎”(Gackt)が突然出家し、
“山本勘助”(内野聖陽)とバッタリ遭遇している頃、
尾張の“織田信長”は何をしていたのでしょう。
実は織田家もまた、景虎の抱える家中の内紛のごとく、
不穏な空気に包まれていました。
すなわち、織田信長と弟“信行”の対立です。
周知のように、信長は「大うつけ」と言われた破天荒な人物でした。
父親の葬儀のとき、抹香を仏前に投げるという奇行を演じた男です。
その一方で、弟の信行は律儀者で家臣からの信頼も厚い男。
彼を織田家の跡継ぎと考える家臣は少なくありませんでした。
その中には、のちに信長の重臣となる“柴田勝家”もいます。
そして弘治2年、両者はついに激突。
稲生原(いのうはら)で干戈を交えました。
信長方700に対し、柴田勝家ら信行派は1700という軍勢でした。
兵の数で劣る信長は苦戦します。
しかし、ここで敗北する信長ではありません。
のちに「天魔」とも称されるように、
彼が発するオーラは通常の人間とは一線を画すものだったのでしょう。
信長が大音声で叱咤すると、
それに恐れをなした敵兵はバラバラになって逃げたのです。
上総介殿(信長)大音声を上げ、御怒りなされ候を見申し、
さすがに御内の者共に候間、御威光に恐れ立とどまり、終に迯崩れ候キ。
(『信長公記』角川書店より)
この稲生の戦いで信長は勝利をおさめます。
『信長公記』によると、このとき信長勢が討ち取った首の数450余。
本来ならば、その中に信行の首もあったかもしれません。
しかし、母親が間に入ってどうか許して欲しいと懇請すると、
信長は弟の罪を許したのでした。
柴田勝家も膝を屈し、命だけは助かります。
その後、信行は再び謀反を画策。
彼の不穏な動きを信長に知らせた人物こそ柴田勝家でした。
信長は清洲城に弟を招くと謀殺してしまいます。
この一件により勝家は赦免。
以後、天下布武を掲げて躍進する信長のもとで、
彼はなくてはならない存在へとその地位を固めていくのでした。
大河ドラマ「風林火山」で27歳の“長尾景虎”(Gackt)が突然出家し、
“山本勘助”(内野聖陽)とバッタリ遭遇している頃、
尾張の“織田信長”は何をしていたのでしょう。
実は織田家もまた、景虎の抱える家中の内紛のごとく、
不穏な空気に包まれていました。
すなわち、織田信長と弟“信行”の対立です。
周知のように、信長は「大うつけ」と言われた破天荒な人物でした。
父親の葬儀のとき、抹香を仏前に投げるという奇行を演じた男です。
その一方で、弟の信行は律儀者で家臣からの信頼も厚い男。
彼を織田家の跡継ぎと考える家臣は少なくありませんでした。
その中には、のちに信長の重臣となる“柴田勝家”もいます。
そして弘治2年、両者はついに激突。
稲生原(いのうはら)で干戈を交えました。
信長方700に対し、柴田勝家ら信行派は1700という軍勢でした。
兵の数で劣る信長は苦戦します。
しかし、ここで敗北する信長ではありません。
のちに「天魔」とも称されるように、
彼が発するオーラは通常の人間とは一線を画すものだったのでしょう。
信長が大音声で叱咤すると、
それに恐れをなした敵兵はバラバラになって逃げたのです。
上総介殿(信長)大音声を上げ、御怒りなされ候を見申し、
さすがに御内の者共に候間、御威光に恐れ立とどまり、終に迯崩れ候キ。
(『信長公記』角川書店より)
この稲生の戦いで信長は勝利をおさめます。
『信長公記』によると、このとき信長勢が討ち取った首の数450余。
本来ならば、その中に信行の首もあったかもしれません。
しかし、母親が間に入ってどうか許して欲しいと懇請すると、
信長は弟の罪を許したのでした。
柴田勝家も膝を屈し、命だけは助かります。
その後、信行は再び謀反を画策。
彼の不穏な動きを信長に知らせた人物こそ柴田勝家でした。
信長は清洲城に弟を招くと謀殺してしまいます。
この一件により勝家は赦免。
以後、天下布武を掲げて躍進する信長のもとで、
彼はなくてはならない存在へとその地位を固めていくのでした。