クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

27歳“長尾景虎”は出家。23歳の“織田信長”は内紛をどう戦った?

2007年10月24日 | 戦国時代の部屋
――弘治2年(1556)
大河ドラマ「風林火山」で27歳の“長尾景虎”(Gackt)が突然出家し、
“山本勘助”(内野聖陽)とバッタリ遭遇している頃、
尾張の“織田信長”は何をしていたのでしょう。

実は織田家もまた、景虎の抱える家中の内紛のごとく、
不穏な空気に包まれていました。
すなわち、織田信長と弟“信行”の対立です。

周知のように、信長は「大うつけ」と言われた破天荒な人物でした。
父親の葬儀のとき、抹香を仏前に投げるという奇行を演じた男です。
その一方で、弟の信行は律儀者で家臣からの信頼も厚い男。
彼を織田家の跡継ぎと考える家臣は少なくありませんでした。
その中には、のちに信長の重臣となる“柴田勝家”もいます。

そして弘治2年、両者はついに激突。
稲生原(いのうはら)で干戈を交えました。
信長方700に対し、柴田勝家ら信行派は1700という軍勢でした。
兵の数で劣る信長は苦戦します。

しかし、ここで敗北する信長ではありません。
のちに「天魔」とも称されるように、
彼が発するオーラは通常の人間とは一線を画すものだったのでしょう。
信長が大音声で叱咤すると、
それに恐れをなした敵兵はバラバラになって逃げたのです。

 上総介殿(信長)大音声を上げ、御怒りなされ候を見申し、
さすがに御内の者共に候間、御威光に恐れ立とどまり、終に迯崩れ候キ。
 (『信長公記』角川書店より)

この稲生の戦いで信長は勝利をおさめます。
『信長公記』によると、このとき信長勢が討ち取った首の数450余。
本来ならば、その中に信行の首もあったかもしれません。
しかし、母親が間に入ってどうか許して欲しいと懇請すると、
信長は弟の罪を許したのでした。
柴田勝家も膝を屈し、命だけは助かります。

その後、信行は再び謀反を画策。
彼の不穏な動きを信長に知らせた人物こそ柴田勝家でした。
信長は清洲城に弟を招くと謀殺してしまいます。
この一件により勝家は赦免。
以後、天下布武を掲げて躍進する信長のもとで、
彼はなくてはならない存在へとその地位を固めていくのでした。

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