クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

城跡にて。“藤岡城”を巡る戦国時代の攻防

2020年03月15日 | 城・館の部屋
藤岡城(栃木県栃木市)は狭い小径を行ったところにあります。
藤岡城の歴史を伝える説明板が“三所神社”の境内に建っていますが、
むろんそこだけではなく、その周辺が城跡ということになります。
したがって、神社へ向かう小径も城内の一部。

神社は台地の上に鎮座しています。
その周囲は一段と低くなっており、
全体的に低地に台地が突き出す地形となっています。
上空から見れば陸の孤島のように見えるでしょう。
低地はかつての湿地や沼で、城の守りを固めていました。

伝承によれば、平将門による築城とのこと。
寛仁2年(1018)に足利成行が再興し、その子孫が「富士」姓を名乗ります。
そして、「藤岡」姓に改姓。
佐野城の佐野氏の攻撃を受け、藤岡氏は一旦退去したものの、
後北条氏の軍事協力を得て取り戻し、幼い城主に代わって茂呂氏が城代を務めたそうです。

この茂呂氏は、元亀年間における土橋善長寺(群馬県館林市)において謀殺された「諸野因幡守」に比定される人物です。
とはいえ、上記の城史は伝承の域を出ておらず、
一次資料で確認されないことから藤岡氏なる者も不明ということです(『藤岡町史』)。

なお、元亀年間に善長寺で謀殺されたのは茂呂氏ではなく、
上杉謙信から館林城を宛がわれた前羽生城主の“広田直繁”と見られます。

この茂呂氏は館林城主赤井氏の家臣だった一族です。
上杉謙信の書状によれば、「茂呂因幡守」は騎西城主小田朝興と兄弟とのこと(詳細は不明)。
館林城において、後北条氏と連絡をとっていることから、
外交を担当する重臣と目されます。

永禄5年(1562)、謙信の館林城攻撃によって赤井氏は没落。
茂呂氏も館林城からの退去を余儀なくされたはずですが、
後北条氏と接点を持っていたためか、
のちに藤岡城主として返り咲いているきらいがあります。

永禄10年(1567)、佐野氏は藤岡城を攻撃。
このとき藤岡城主は誰だったのか不明ですが、
同城に在城していた後北条氏の家臣大道寺氏らは岩付まで退去。
そのことを古河公方足利義氏が、豊前氏に伝えています(「豊前氏古文書抄」)

 景虎出張付而、急度注進、御悦喜候、然者、佐野小太郎其外去廿七藤岡へ取際候、
 大導寺以下曰時ニ岩付へ引除之由無是非次代(第)候(後略)

なお、足利の長尾氏も藤岡城に攻め寄せたことがありました(年次不明)。
「夜前」に藤岡城へ軍を進めた長尾氏は、翌朝未明に同城の「一構」を押し破ります。
そして、人馬を強奪するとともに、敵数十人を討ち取ったということです(「鑁阿寺文書」)。
乱取りが一般化していた戦国乱世において、
藤岡城及びその領内も無関係ではなかったのでしょう。

天正12年(1584)には中央の動向と連動する“沼尻の合戦”が勃発。
藤岡城が物々しい空気に包まれたことは想像に難くありません。
後北条氏と宇都宮氏・佐竹氏ら反北条勢が城の近くで火花を散らしました。
終戦後は北条氏照が藤岡城に入城します。
政治的・軍事的役割を担った氏照は、藤岡城を拠点にして活動していたようです。

このように、現在は遺構らしきものがない藤岡城ですが、
群雄割拠の時代にその痕跡を残しています。
勢力伸長を図る後北条氏と、それに抵抗する国衆たちのせめぎ合いの中で、
藤岡城は拠点としての重要な役割を担っていたのでしょう。

城跡には民家が建ち、近くには鉄道が通っています。
かつて城の守りを固めていた低地は田畑に変貌。
城跡には現代を象徴するような太陽光パネルが建ち、
戦国時代は遠い昔であることを感じさせます。

城跡はとてものどかです。
訪ねれば、眠気を誘われる静けさに包まれていることでしょう。
個人的には、観光地よりもこの手の城跡が好きです。
小学生のときに作った秘密基地へ足を運ぶのと似た感覚だからかもしれません。
静かだからこそ、歴史の息吹が伝わってくる。
目を閉じれば、歴史の脈動感が熱く伝わってくるような……


台地と低地


藤岡城遠景
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