クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

“羽生城”へ行きませんか?(41) ―北条氏政の小松布陣―

2008年09月05日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
天正元年(1573)8月頃、“北条氏政”は羽生領に侵攻し、
小松に布陣した(『常陸遺文』)

 氏政去月廿八出馬、忍・羽生之間、号小松与所ニ被陳(陣)取之由

小松と言えば、羽生領総鎮守の“小松神社”が鎮座している場所である。
神社に隣接するように、“小松寺”もあった。
実は、天文年間に“広田直繁”と“木戸忠朝”は、
三宝荒神の御正体を寄進したり、社殿を修理したりと、
積極的に働きかけている。

これは在地的基盤の薄さをカバーする意図があったのだろう。
総鎮守に働きかけることで、
領民の心を掌握しようとしていた。

当時、小松神社・寺には、7人の修験者が坊を構えていたという。
江戸後期に成立した『新編武蔵風土記稿』には、
法蓮坊・安養坊らの坊跡が「残れり」と記されている。

すぐ近くには境界線である“会の川”が流れ、
「忍・羽生之間」であることから、
敵の侵入を監視する砦の役割も担っていたのだろう。
氏政は羽生本城を攻める前に、
この小松神社・寺を占拠し陣取ったのである。

その戦利品として氏政が手にしたのは、
天文5年(1536)に直繁と忠朝が寄進した“三宝荒神”だった。
これは江戸城を経由したあと、
小田原の安楽寺に移されたらしい(『晦日神社三宝荒神縁起並安楽寺記』)。

『新編相模国風土記稿』には江戸期の羽生城主“大久保忠隣”が、
父忠世のあとを継いで小田原城主になったときに、
羽生から小田原に移したとあるが、
戦国期に羽生領に侵攻した北条氏政の手によって、
持ち去られたようだ。
以後、三宝荒神は羽生の土を踏んではいない……
(続く)

※最初の画像は小松神社(埼玉県羽生市小松)の鳥居。
 参道にはかつて多くの石碑が並んでいたらしいが、いまはない。
 なお、古老の話によると、参詣者は会の川(古利根川)の舟運を使って、
 小松神社を訪れていたという。


小松神社の堀


小松神社の祭り風景


小松寺跡に立つお堂


羽生城主が寄進した三宝荒神
「武州大田庄小松之末社三宝荒神 天文五年丙申五月吉日願主両人
 直繁 忠朝」と刻されている。
 直繁と忠朝が初めて歴史に名を現す史料である。

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