くまえもんのネタ帳2

放置してたのをこちらに引っ越ししてみました。

愛の言葉

2005-05-17 09:30:58 | ノンジャンル
愛の言葉

言葉の世界はある
しかし世界は言葉ではないから
愛する人を言葉で表すと
言葉に切り刻まれ
言葉にならなかった
おびただしいカケラが散乱する
生命の、愛情の、肉体の、体臭の、言葉にならなかったカケラ
これこそが生きている証なのに

切り落とされた破片に
気がつかない
言葉でしか考えない人には
それが見えない




連星(二つの太陽)の回りの惑星の運動

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アンリ・ポアンカレは混沌とした世界を愛した人だと思う。
ニュートンの整理され切り刻まれ飼い慣らされた世界でなく、
世界の混沌を、生きて、脈打って、のたうち回る世界を愛した。
混沌=カオスの顔をとことん見つめた人。
彼の内なるカオスに気づき
それを抱きしめた人。

すべてを疑うか、すべてを信じるかは、
二つとも都合の良い解決法である。
どちらでも我々は反省しないですむからである。

彼らしい言葉だと思う。

http://www.a-phys.eng.osaka-cu.ac.jp/suri-g/phys8.html



2005-05-17 09:29:41 | ノンジャンル
大人になったら、自分の顔に責任があるというのは、本当だと思う。
でも、ある程度って感じね。

写真を撮るという行為を繰り返していると、そのことがよくわかる。
「写真」は一つの演出で、けして真実の全てを映しているわけではない。

自分の顔というのは、一つの演出で、それは自分の全てを表してはいない。
これは、実にありがたいことだ。
自分でももてあましている問題を、他人が察知するすべのないこと。
これは、神様の優しさなんではないのかと思ったりする。

人は他人の顔を見て、その人の見たい側面だけをとらえているのが普通だったりする。
たとえば、自分は自分がこんな人間だというファンタジーを人に押しつけるべく、
ああでも無いこうでもないと、髪の手入れをしたり髭を整えたり。
ところが、顔の髭全部をそり落としても顔中髭だらけにしても、
自分の周りの人間は案外気づかないものだったりする。
彼らもまた、自己演出に忙しいからだ。
自分がどう見られているか、皆戦々恐々として、他人の顔の細部に頓着している暇がない。
つまり、自分の外見を、そんなに気にしても始まらなかったりする。
大方は、世間一般の、ステロタイプ化された、
そんな程度の自己演出と判断で事足りているのである。
いわゆる熊系とかね。
それに、自分が欠点だと思っていることを、美点だと思う人間も意外にいるものだったりもするからね。
蓼食う虫は後を絶たないってか。(^_^; やれやれ

顔というものが、その人の全てを表していないことは言うまでもないことなんだけれど、
そのことは逆に価値のあることだったりする。
写真を撮るとき、それを実感する。
写真は、物体としての顔に、いかようにでも演出を加えることができるからね。
で、僕の見たい物だけが映される。
誰かの写真を撮っても、そこに写っているのは、
その人に関する僕のファンタジーでしかない。
そのファンタジーが、現実の、日常の何かよりも素敵だったりすると、
撮る側も撮られる側も、なんだか少し嬉しくなったりするような気がしている。


ネット上の余計な苦労

2005-05-17 09:28:23 | ノンジャンル
下の書き込みに貼り付けたリンク先で、こんな下りを発見。
こう言うのは、ネットじゃなきゃあり得ない記述ですにゃぁ。
読まなくても良い人が読み、的はずれな親切?で、メールなんか送りつけるんだろうねぇ。
迷惑な話。はははのは

ちょっと抜粋ね。(^。^;
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ネコの顔は、「パン屋の変換」によって引き伸ばしと折り畳みを交互に繰り返して限りなく切り刻まれていくわけです(自然科学的考察では、通常、憐憫などの感情移入をしません)。この性質を混合性といいます。

[「パン屋の変換」によるネコの顔の引き伸ばしと折り畳み.]の図


http://www.a-phys.eng.osaka-cu.ac.jp/suri-g/phys8.html