【前回からの続き】
ご門跡さまが地方へ巡錫(旅行)し、宿泊先で風呂を使われると、
その残り湯を門徒らが、こっそり頂戴する習俗があった。
北陸や東海地方の真宗王国では、ごく普通のことであったらしい。
持ち帰って、これを飲むというのである。
その湯には薬用効果があると信じられ、難病も治るという俗信である。
浄土仏教の弥陀の本願であり慈悲でもあった?
さて、親鸞の頃の教団は、天台や真言のような大きな勢力にはなれず、
片隅の説教所のようなものだったらしい。
本願寺が津々浦々へ勢力を拡大するのは、第8代蓮如の政治力による。
農村に講を造り、砦のような寺の上に大寺による管理体制をしいた。
歎異抄を説き浄土真宗を法義とする本願寺の祖となった親鸞。
最後に、親鸞らが受けた「二位の法印」とよばれた裁きについて触れたい。
後鳥羽上皇の御代、親鸞以下弟子たちは「仏法の敵」と興福寺の僧らに訴えられた。
朝廷より罪を得て、親鸞は越後国へ流罪となった。
親鸞は、僧でもなく俗でもなく、いわゆる破戒僧となったのである。
それ以降、破戒僧の異名である「禿(とく)」を姓とした。
署名は、いつも「愚禿(ぐとく)親鸞」とした。