紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

人生というアポリア-サルトルの『嘔吐』を再読する

2006-10-28 19:38:29 | 小説・エッセイ・文学
平成18年度の文部科学省の『学校基本調査』によると(速報値)、文系(人文科学+社会科学)の大学院生(修士課程)の総数は、3万3千3百74人だそうだ。同じく文系の学部生の総数が、約137万人であることを考えると、大学院進学率が高まったとはいえ、文系の場合は学部卒業生の5%弱が進学しているに過ぎず、まだまだ少数派であることを改めて実感した。昨年は大学院の志願者が減ったように感じていたが、全国のデータを見ても、文系の大学院生は微減傾向にあるようで、実感通りなのだな、と思った。

私自身が大学院に進んだ時も、親しい友人やゼミ仲間の中で進学したのは私一人だった。文学部だったらそうでもないのかもしれないが、私が3、4年時に所属していたゼミは、学部でも1、2位を争う「就職に強いゼミ」で、しかも当時はバブル期の採用活動の全盛期だったので、面接を受けさえすれば、内定をもらえる一流企業もいくつもあり、しかも高給だったので、敢えて大学院に進もうとするものがいなかったのも当然であろう。ゼミ仲間の大部分は、金融業界に就職した。

政治学という学問は社会科学の一部門でありながら、経済学、経営学のように実社会で役立つわけでもなく、かといって文学、哲学や芸術学ほど「実用性」に背を向けているわけでもない、中途半端な性格を有している。政治学の中に、行政学や政策学のように実用性を志向する分野もあれば、政治思想史、政治哲学のように一応、「政治」を対象としながら、哲学的なスタンスで世の中を斜に構えてみるものまで、幅が広いのも特徴である。しかし学部レベルの政治学科卒業生の大部分はサラリーマンになり、営業畑で生きていく人が多いはずだ。その点は経済学部や経営学部とほとんど変わりない。そのため政治学科には、文学部に見られるような、「思索型」、「世捨て人」、「芸術肌」の学生はほとんどおらず、よくも悪くもごく普通に就職する平均的な文系大学生が集まる。

そんな環境で4年間を過ごした後、大学院に進学してからは、就職して日本経済の第一線で頑張っている友人たちのことを意識せざるを得なかった。自分自身が大学院に進学した意味ややっている政治学が、社会に出て働くのと同じくらい意味がないといけないのではないか、そんなことを当初は気負って考えていた。卒業してからも時々開かれていた、ゼミ仲間の飲み会で顔を合わせていたからなおさらだった。「社会に出ると、法律か経済か、どっちかやっておけばよかった。政治学はぜんぜん役に立たないね」。友人たちはいつも同じようなことを口にしていた。

ともかくも修士課程1年目は授業に追われ、2年目は修士論文の執筆に専念し、博士課程に進む際も、果たしてさらに進学すべきか否か、いろいろ迷ったものの、結局、そのまま進学した。博士課程は狭き門だったので、進学すべきかどうかという悩みも最後には、目の前の入試に合格するという目標に収斂してしまったのだった。

しかしいざ博士課程に進学し、出席すべき授業も金曜日午後のゼミくらいになると、自分の存在ややっていること自体が急に空しく感じられた。大学院に長年、在籍しながらも、将来の展望がなかなか見えてこない先輩たちの姿を目の当たりにしたことも大きかった。路上でチラシを配っている人を見ては、そんなチラシの方が、自分が一晩中机にかじりついて原書を読んでまとめたレジュメ1枚よりも「社会的に」意味があるのではないか?まったく意味がない比較だが、そんなことを時々、考えたりもした。そんな折に出会った、というよりも、何か答えが見つかるかもしれないと思って読んだのが、サルトルの『嘔吐』だった。

実存主義の「聖典」とも呼ばれるこの小説は、18世紀史を研究している主人公ロカンタンが、中央ヨーロッパ、北アフリカ、極東を回った調査旅行の後、港町ブーヴィルで静かに歴史を執筆しながら感じ始めた、周囲の事物、社会、過去、自分の存在自体に対する「吐き気」を描いている。原題 ”la nausee”は、「嘔吐」というより、「むかつき、吐き気」であるが、神経鋭敏なロカンタンは、例えば美術館で肖像画を見ても、次のようなことを考える。

そのとき私は、私たち(=肖像画上の人物とロカンタン自身)を隔てているものすべてを理解した。私が彼について考え得たことは、彼にとって痛くも痒くもないものだった。それは小説の中で行われる心理分析と言えば言えなくもなかったが、彼のほうからの批判は剣のごとく私を突き刺し、私の生きる権利に対してまでも疑問を投げかけた。だがそれはまさにその通りだった。私はそのことをつねに理解していた。私に生きる権利はなかったのだ。私は偶然この世に現われて、石のように、植物のように、微生物のように存在していた。私の人生は行き当たりばったりに、あらゆる方向に向かって伸びた。それは私にときおり曖昧な合図を送ったが、他の場合は意味のないぶんぶんいう音にしか聞こえなかった(白井浩司訳、138頁)。

肖像画で描かれた人物は家庭でも社会でも義務をきちんと果たし、人生に疑念を抱かなかったはずだが、それに比べて「私」は・・・などと絵を眺めて勝手に懊悩するロカンタンの姿を、神経症的だ、思い込みだ、妄想だと片付けるのは簡単かもしれない。しかし、自分の存在とは何か、自分の人生の意味とは何だろうかと真剣に悩んだことのある人は、見方によっては滑稽なこの描写を読んでも笑うことはできないだろう。また研究者は研究対象に対して、このロカンタンと同じような思いに捉われることも珍しくないはずだ。

院生のときに読んでいて、印象を受けたのは図書館で出会った「独学者」が、ロカンタンを慰めて、「アメリカのある作者の本」の結論として紹介した、「人生は、それに意義を与えようとすれば意義があるのだ。まず行動し、企ての中に飛び込まなければならない。その後で反省をすれば、すでに賽は投げられたのであり、道は決まったことがわかる」という言葉だった。この場面では、その独学者も「自分の意見ではない」と言っていたし、またサルトル自身の投影でもあるロカンタンも「虚偽の一種」だと突き放しているのだが、「アンガジュマン(関与)」と称して、その後、政治活動に積極的に参加していたサルトル自身を考えると、自我追求の袋小路の出口を、「人生に最初から決まった意味はないが、自分で意味づけるのだ」というテーゼに救いを求めているのではないかと考えた。実際、サルトルの後の講演録『実存主義とは何か』にほぼ同義の言葉が再び登場している。この言葉が、院生当時の自分にとっても、運命決定論的な構造主義よりも魅力的に見えた。

その後、私自身はアメリカに留学して、いつの間にかアメリカ流の楽観主義を身につけ、「やらないで後悔するより、やって後悔しよう」などと考えるようになり、かつては共感していたロカンタンのような懐疑主義から遠くなった。久しぶりに読み返してみて、面白かったのは、ロカンタンがかつての恋人・イギリス人女性アニーと再会する場面である。二人で、「完璧な瞬間」や「特権的な状態」とは何か、といった抽象的で哲学的な議論をするのだが、結局は、別れてからどちらが精神的により成長したのか、変わったのかを競い合っているようだ。

「アニーは私と同じ考えなのだ。私たちは決して別れたことがなかったように思われる」などと考えているロカンタンに対して、アニーは、「それじゃああたしは、あなたが変わらない方がやっぱり好きかもしれないわ。だってその方がずっと便利だもの。あたしはあなたとは違ってよ、だれかがあたしと同じことを考えたというのを知るのは、どっちかというといやだわ。それにあなたは間違っているはずよ」と冷水を浴びせる。最後にはアニーに「あなたはあたしに再会できなかった」と言われ、追い出されてしまう。ロカンタンの立場で書きながら、「単独者」を気取るロカンタンの勘違いと孤独や、二人の心と考え方のズレが巧みに描きだされている。

『嘔吐』の原書が出版されたのは、1938年。今から70年近く昔である。日本語訳も初版は1951年と50年近くも昔で、私が読んだ改訳版が出たのは10年くらい前であるが、上に引用したアニーの台詞にみられるような女性言葉などに古さを感じさせられる点を除けば、白井浩司氏の達意の訳文が光っている。重い主題を扱った哲学的小説のイメージを裏切る、少し屈折したフランスの恋愛映画のような軽やかで、時には官能的ですらある文体で、意外と読みやすいと感じる読者も多いはずだ。最近、ニート問題にひきつけて、このサルトルの『嘔吐』を論じた本もでているようだが(見てみると結局、フツーの哲学入門的な本のようだが)、人生とは何か、自分とは何か、何故、生きなければならないのか・・・若いときも年取っても直面する、永遠の問いを考える手がかりとして一度は読まなければならない小説だろう。


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