紅旗征戎

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一人でいられない恐怖-安部公房の『友達』

2006-10-22 23:47:16 | 小説・エッセイ・文学
藤子不二雄A(安孫子素雄)のブラック・コメディ漫画『笑ゥせぇるすまん』に「やどかり」という話があった。酔っ払って帰宅した気弱で気のいい主人に同行してきた見知らぬ男が、一晩泊めてやったのをいいことにいつまでも帰ろうとせず、自分の家族を次々と呼び寄せ、ついには家を占拠して、勝手に住み着いてしまうという恐ろしい話である。藤子の漫画は、あるいはこの話にヒントを得たのではないかと思ったのが、往年の前衛作家・安部公房の戯曲『友達』である。

この作品に最近出会ったのは偶然で、洋書売り場の日本文学の棚を何気なく眺めていたときに、"Friends"というタイトルで英訳されていたのが目を引いて、オリジナルの日本語版を読んでみた。

1967年に書かれ、74年に安部公房スタジオによって上演されたこの作品は、次のようなあらすじである。31歳の独身の商社マンの部屋に9人の家族(祖父、父母、3人の息子、3人の娘)が突然押しかけ、勝手に上がりこむ。男は警察に「不法侵入だ」と訴えるが、「家族」の堂々たる振舞いのせいで信用してもらえず、事件として取り合ってもらえない。「家族」は隣人愛の大切さや共同生活の重要性を男に一方的に説きながら、傍若無人に振舞い、男の財布を取り上げ、「私たちは、ただひたすら善意から、君の財産を安全に管理して差し上げる義務を感じたまでのことだ」と言い放つ。口の達者な「家族」は、心配して訪ねてきた男の婚約者に対しても甘言を弄して、男との仲を裂こうとするばかりか、彼女の兄を言いくるめ、「仲間」にしてしまう。すっかり「家族」のペースで物事が進み、どうにもできない男は家を出ることを考えるが、監禁されてしまう。「家族」の「隣人愛」の思想が通じない男は、結局、毒殺されてしまう。男に恋していたふしもある「家族」の「次女」は食事で毒殺した後、「さからいさえしなければ、私たちなんか、ただの世間にすぎなかったのに」とつぶやく。

この話を読んで、集団生活を強要する新興宗教を連想する人もいれば、安部公房自身が一時所属し、やがてその方針に背いて除名された共産党を想起する人もいるかもしれない。いや、描かれているのは実はもっとありふれた光景なのだろう。『砂の女』もそうだが、安部公房の小説や戯曲は一見、非現実的な設定でありながら、日常生活に潜む不条理を寓話的に描いているため、前衛的な見かけよりもわかりやすく、思い当たることが多いのではないだろうか。

赤の他人が突然、親戚になったり、共同生活の「ルール」なるものが、結局のところ、それを唱えている人のわがままに過ぎなかったり、「一人でいることが悪いことだ」と勝手に決め付けたり・・・。この侵入してきた「家族」に近いことを他人や家族に対して行なっている人、そうした人々に現実に囲まれている人は珍しくないだろう。

最後には男に直接、手を下すことになる「次女」が、男に愛情を告白し、「私の頭の中は、いつもあなたのことでいっぱい」と言い、男から「(呆れて)それでいて、これほどぼくの気持ちがわからないなんて」と言い返される件も印象的で象徴的だ。自己満足な愛情や善意の押し付け。男が「わからない」と、それを「病気」だと考えて、最後は結局、「殺して」しまう。家族でも組織でも恋愛関係でも同じようなシチュエーションがあちこちで繰り返されていそうだ。

安部と親交があり、本人も優れた戯曲家でもあった三島由紀夫は、この作品を「連帯の思想が孤独の思想を駆逐し、まったくの親切気からこれを殺してしまう物語」と評した。「孤独」を恐怖に感じている「家族」が「善意」で、男を「孤独」から救おうとするのだが、もし男にとって「孤独」が恐怖でなく、家族の善意の方が恐怖だったとしたら、そうした男の存在そのものが今度は、家族にとって脅威となるのだろう。家族としてはそれを認める訳にはいかず、結局、男を消すしかなくなったのである。「孤独」を排除しようとしているこの家族は、「一人でいるのが怖い」という「恐怖」に基づく連帯であって、安心の連帯とは言えないのではないだろうか。

日常や社会の常識に潜む狂気をシュールな舞台でわかりやすく再現する安部公房の戯曲が、日本だけでなく、海外でも高い評価を受けるのは、こうした人間や社会に対する普遍的な洞察が含まれているからであろう。


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