紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

アメリカで読んだ『陰翳礼讃』

2005-04-07 17:17:22 | 小説・エッセイ・文学
外国で生活したり勉強しながら自分の国の文化の知らなかった側面を再発見するのは楽しいことである。アメリカの建築学の大学院の授業を聴講していた時に、学部時代に日本に留学していた学生と知り合った。彼女は学部では東アジア研究を専攻していて、日本文化に精通していたが、ある時、「タニザキの"In Praise of Shadows"を読んだことがありますか」と尋ねられた。これは言わずとしれた谷崎潤一郎の名エッセイ「陰翳礼讃」の英訳だが、恥ずかしながらその時点では読んだことがなかったので、夏休みに帰国した折に、中公文庫版を読んでみた。

谷崎といえば、『痴人の愛』、『刺青』、『卍』といった当時は倒錯的だと考えられていたデカダンな小説や、『春琴抄』や『細雪』といった何度か映画化もされている日本的な小説の作家として知られている。アメリカでも日本文化や文学に関心がある学生にはかなり読まれていて、『痴人の愛』は"NAOMI"というタイトルで、また『細雪』は"The Makioka Sisters"と訳されていて、主人公名をタイトルにするのがアメリカらしいと興味深く思ったりもした。

この『陰翳礼讃』は、蛍光灯全盛の今の日本とは違い、蝋燭や行灯を使い、暗闇や陰が多かった時代の日本を明るい照明の欧米諸国と対比しながら論じた文化論である。しかしアメリカにいてこの小論を読みながら私が思ったのは、「陰翳礼讃」しているのは、むしろ今はアメリカの方で、日本の方が照明過剰なのではないかということだった。

留学先の町はずれの空港に夜到着し、タクシーに乗って大学町の中心にある下宿に向かう途中は、街燈一つなく、まさに車のヘッドライトだけが頼りの暗闇だった。下宿も洗面所に蛍光灯が使われていただけで、あとは全て白熱燈で、電気スタンドまで白熱灯だった。大学院のレポートを徹夜で仕上げなければならない毎日だったので、この白熱灯はすぐに切れてしまい、頻繁に交換しなければならなかったが、スーパーで売っている安物の電球は交換していると金属部分だけがソケットに残ってしまい、ガラスの球だけが外れてしまって驚かされたのも懐かしい思い出である。

今は、勤務している大学の歩道でも間接照明を使ったりと、日本で暗さを楽しむ余裕が出てきたが、高度成長期の日本は蛍光灯的な明るさを一律に実現することを目標にしてきたのかもしれない。治安やコストの点、仕事の効率などを考えると日本の蛍光灯文化はそんなに悪いとは思わないが、明かりにしても、また電車内やプラットフォームの絶え間ないアナウンスに見られるような音にしても日本は「光」も「音」も過剰な国であるような気がする。外国映画に見る日本の都市の描写で、ネオンや騒音が強調されるのも、彼ら彼女らの目から見れば率直な印象なのだろう。

「陰翳礼讃」は失われた日本へのノスタルジーとして読むこともできるが、アメリカの田舎の大学町ではまだまだその世界だなあと興味深く読めた。この中公文庫版に収められている他のエッセイも大変興味深く、西洋対日本、男性対女性、関東対関西といった谷崎得意の二項対立的な比較が存分に行なわれているので、興味のある方には是非一読をお勧めしたいし、その二元論的な思考がある意味で谷崎が欧米で理解されやすい要因となっているのかもしれない。


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