紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」-堀田善衛の『明月記』論にみる反骨精神

2005-09-25 16:13:17 | 小説・エッセイ・文学
あと数日でブログ開設1周年である。既に気付いている方も多いかと思うが、このブログのタイトルである「紅旗征戎(こうきせいじゅう)」は、『新古今和歌集』や『小倉百人一首』の撰者として知られる、平安時代の歌人・藤原定家(1162-1241)の日記『明月記』の有名な一節、「世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎吾ガ事二非ズ」から取ったものである。
 
時に源平争乱の時代。紅旗、つまり朝廷の旗(または天皇を奉じた平氏の旗と解する場合もあるようだが)による、征戎、つまり朝敵の征伐など、私は知ったことではない、という当時19歳の定家の非政治的・芸術至上主義を宣言したものとして知られている。私の専門である政治学はまさに「紅旗征戎」、つまり戦争と平和、騒乱と秩序の回復、デモクラシーなど支配の正統性をめぐる学問であるが、定家自身もこの発言とは裏腹に政治に翻弄され、日記を書き続けた。そうした定家の思いになぞる意味で、ブログのタイトルに好適ではないかと選んだ。
 
去年の9月に始めた時はネット上に定家やこの言葉をめぐるホームページは多数あったが、このタイトルのブログはなかったのでよいと思ったのだが、調べてみると今年の3月から、国文学を研究されている方が「贋・明月記―紅旗征戎非吾事―」という開設されていたようだ。

『明月記』は難解な漢文で、専門家以外は通読しがたいものだが、作家の堀田善衛氏による『定家明月記私抄』、『定家明月記私抄(続編)』という手頃な解説書が文庫で出ており、気軽に触れられるようになった。堀田氏の解説本を読んでいて興味深かったのは、第2次大戦中、20代の文学青年として「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」という言葉に出会い、衝撃を受けて、「自分がはじめたわけでもない戦争で」死ぬかもしれない、「戦争などおれの知ったことか」と言いたくてもいえないと胸の裂けるような思いをしてから、40年間、『明月記』に付き合い、ようやくまとめたという重みだった。そのため定家の気持ちを代弁する形を取りながら、堀田氏自身の批判や反骨精神が随所に溢れている。

堀田氏は後鳥羽上皇の放蕩・乱倫、平安時代の婚姻制度の非人間性に対する素朴な驚き、崇徳院の革命思想に対する畏怖などを自分の言葉で語っている。行間に堀田氏自身の貴族政治や天皇制に対する批判が満ちている。堀田氏は朝鮮戦争期の新聞記者の苦悩を描いた『広場の孤独』で芥川賞を受賞したが、院政や貴族制にたいする堀田氏の厳しい視線に、彼の小説同様の左翼的な政治傾向を読み取るのは容易かもしれない。
 
堀田氏は伝統芸能の世襲、家元制度を厳しく批判して、「(芸術が)家のものとなったりしたのでは、爾今独創を欠くものとなることは当然自然であり、存続だけが自己目的化して行く。縄張り集団の成立であり、それは日本において(中略)俳諧、連歌、茶、能、花道等々、すべてがこのパターンを取る。存続だけが自己目的化することにおいて、天皇制もまた例外ではない」(269頁)などと述べている。この言葉にも彼の姿勢がよく出ていると言えるだろう。

しかし堀田氏の『明月記』解説の真骨頂は、芸術運動と芸術至上主義の捉え方にあるのではないだろうか。堀田氏は、後白河法王が当時の流行歌である「今様」に凝り、有名な『梁塵秘抄』を編纂したことに触れ、「上層階級が想像力、従って創造力が欠けて来て、歌に歌を重ねる自分自身の真似ばかりをするという自動運動(オートマティズム)をはじめるとき、そこに生ずるものが階級への下降志向である」(237頁)と捉え、今で言うポップカルチュアに鋭敏だったと賞賛されることの多い後白河の姿勢を、むしろ宮廷文化の行き詰まりと創造力の欠如の現われとして批判的に捉えている。同様に堀田氏自身がかつては「その抽象美を日本文学史上の高踏の頂点であり、現実棄却の文学の祝祭」とまで賞賛した新古今集の世界を、文学として頂点を極めたということは、あとは袋小路ということで、「その先にあるものはデカダンスのみであり、現実を棄却して文学によって文学をするものは必ずや現実によって復讐されるのである」(236頁)と断じている。

マラルメ、パルナッス、ホイジンガといった、王朝文学論ではまず出てこないような固有名詞が飛び交い、堀田氏の西欧文学・文化の知識を縦横に駆使して論じる本書は、国文学の門外漢である一般読者としては大変興味深いが、堀田氏の平安文学に対するまなざしや問題意識は現代的すぎると批判することも可能だろう。
 
歴史家の場合は、研究対象となる時代背景に寄り添うように理解することが求められるだろうから、堀田氏のように現代を生きる自分の問題として定家の日記を読むのは、あるいは邪道かもしれない。しかし歴史学者が『明月記』に書かれている有職故実のディテールや当時の平安貴族の生活についての事細かな専門的描写をした論文を読むよりも、堀田氏自身の体制批判の精神と芸術創造者としての自負が漲った解説ともに定家の日記を読む方が、時代を超えて、浮世渡世の悩みを共有できる、知的で楽しい経験に違いない。自分と同年代の時に定家がどうしていたのかが気になって読んでみたが、出世の遅れの愚痴と貧窮の記述ばかりで残念であった。ともあれ、芸術と政治、戦争と文学、ハイカルチュアとポップカルチュア、芸術の階級性、貴族社会の文化と構造、伝統芸能の継承など様々な問題に思いを巡すことのできる好著だと思う。


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