紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

私的エッセイと公的発言の間で-ブログ1周年にあたって-

2005-09-28 16:17:14 | 日記
今日、9月28日でこのブログを書き始めてちょうど1年を迎えた。最初は担当している『アメリカ社会論』の質問に対する答えのストックが溜まり始めたので、一般に公開しようと思ってはじめた。第1回目(2004年9月28日)が「アメリカにおける保守とリベラル」、翌日が「黒人の民主党支持」といった具合で、よく聞かれるポイントを簡潔に説明しようとしたものだった。10月17日の「受刑者大国アメリカ」あたりまではそのパターンで書いていたのだが、この辺で大分長さも長くなり、評論調になってきた。
 
台風で授業が休講になったのをきっかけに、初めてアメリカ解説と身辺雑記を交えて書いたのが10月20日の「日本の大学と休講」だったが、この時、同僚の一人(実は出身大学院の先輩でもあるのだが)に面白いと言われた。以後、やや調子にのって評論を書くようになってしまった。彼は毎回熱心に読んで、「改行なしで長すぎるエッセイは読みにくいから、もう少し切れ目を入れてくれ」と助言までして下さった。

この1年間で書いた記事が81本なので、週二回ペースにも達しておらず、全体としては決して多くはない。2004年12月、2005年5月のように一回しか更新できなかった月もあったが、ブログを書くようになって、日常生活での観察や考察、専門外の読書の習慣などが以前よりも深まってきたのはよかったと思う。81の記事のうち、ブログ上でコメントを頂いた記事は17とこれも多くはないが、先ほどの同僚を含め、ゼミ生を中心とした周囲の学生や友人たちがいろいろと感想を寄せてくれた。特に同僚から面と向って「読んでるよ」と言われるのは恥ずかしいことであるのだが、自己満足に終わりがちなブログがそうした周囲の方々のコメントのおかげで、「目に見える」読者層を意識できて、書き甲斐が出たことは確かで感謝している。

周囲の方の反応があった記事をいくつか振り返ってみたい。2004年11月30日の「テレビは『自ら助くるものを助く』か?」は、アメリカでの人生相談型のトークショーに触れたものだが、初めてトラックバックしていただいた他、アメリカで生活していた院生もショーを見ていたらしく面白いと言ってくれた。12月27日の「正しい見方は誰が決めるか」は、自分としては言いたいことの半分も書けなかった記事だが、差別や偏見のない「正しい」表現、アメリカ流に言えば「ポリティカル・コレクトネス(政治的適正表現)」についての私見を述べたものだが、ブログ上で学生の一人からコメントを頂いた他にも、何人かの方から意見を頂いた。
 
2002年2月2日の「参政権と日本の若者」は、授業で選挙に行ったことがない、あるいは関心がない若者に選挙の重要性を教える難しさについて書いたものだが、先日の総選挙で周囲の学生を含む若者たちが大きな関心をもち、投票に出かけていた様子を見ると、状況次第で大きく変わるものだと思わされた。この記事の中で在日韓国人学生が参政権が無いことについて言及しているのだが、記事を読んだ、知り合いの在日韓国人学生が「自分の問題として読んだ」とメールをくれて、「参政権をもてないことは残念だが、自分の周囲の若い在日の学生たちも最初から政治に関心がない人も少なくない」という感想を寄せてくれた。2月12日の「反体制アニメと家族像」といったとっつきやすいトピックは学生には興味深かったようだ。
 
やわらかい話題を取り上げた時は同僚や周囲の人から「面白かった」と言われることが多く、例えばゲーム理論と絡めて男と女の見方の違いと埋め難い溝について書いた3月20日の「尽くす男は存在するのか?」も多くの方から興味深い感想を頂いた。テーマとしては先ほど挙げた「正しい見方は誰が決めるのか」同様、社会科学や社会評論に携わるものなら誰もが悩まされる、どの立場でどう発言すれば、「偏見」という謗りを受けずに済むのかという切実な問題について、私としては真面目に書いたつもりだが、軽い読み物として面白がられたようである。

大学の公開講座や研究会、または大学の広報誌で発表した原稿を転用したものもいくつかある。2004年11月3日の「メインストリートの再生」、2005年3月11日の「グローバル化はアメリカ化か?」、3月28日の「住民自治の功罪と対立するコミュニティ観-アメリカの場合-」、8月17日の「大都市が作る政治社会学-シカゴ、ニューヨーク、ロサンゼルス-」などがそうだが、どうしてもブログとしては専門的で長く、分かりにくい文章になってしまった。

同僚や友人からしばしば言われたのは、アメリカ政治を専門にしている私が「意外と」日本の文学や古典に興味をもっているのではないかということだった。しかしおそらく高校時代の友人からすれば、むしろ今、政治学を専門にしている方がやや意外で、国文学をやっていると言っても驚かないかもしれない。高校時代は古文・漢文が一番得意だったのだが、アメリカ政治を専門にするようになってからそうした経験を少しも生かすことができないのを残念に思っていた。
 
読み返してみると、昔の趣味がブログの題材選びにも出ている気がする。3月8日の「『葉隠入門』と『堕落論』にみる、生と死の哲学」、4月7日の「アメリカで読んだ『陰影礼賛』」、5月3日の「国語の授業で読んだ本を再読する」、7月24日の「『危険な関係』と平行線の粋」、8月15日の「ラストシーンから始まる人生:計画家・三島由紀夫」、8月18日の「『三酔人経綸問答』を再読する」などがそれに当たるが、日本の文化や文学が分からなければ日本の政治や社会を理解することはできないし、アメリカの社会や政治を学んでも、最終的には日本の社会や政治の改革につながらなければ何の意味もなく、単なる趣味に終わってしまうと平生思っているので、こうした関心は持ち続けてゆきたい。自作の詩を載せるほど恥知らずでもナルシストでもないが、何度か有名なをとりあげてブログを書いてしまった。これらは概して評判が悪かったので、今後はおそらく?登場することはないだろう。

大学での日常や教育についてダイレクトに書いたブログは、学生や同僚からいろんなご意見を頂いた。愚痴っぽくなってしまったものや口が滑りすぎた記事も少なくなく、反省もしている。8月18日の「真の反骨精神・批判精神とは」は、大学界にはびこる権威主義、反権力の新たな「権威」化とそれに安住する知識人の問題点について、日頃から思っていることを書いたものだが、何人かの学生からコメントをもらって、若い世代にも趣旨が伝わるのだなあと少し安心した。
 
ブログでは硬い話題と柔らかい話題を使い分けているが、硬い話題、特に大学教育関係について書くと、後で読み返すと、とても偉そうな口調になっているように感じられ、「おまえはどうなんだ?」という声がどこからか聞こえてきそうで内心忸怩たるものがある。このブログでは、全くの私的な日記やエッセイでなく、ある程度、公共性のあるテーマについて自分なりに責任をもって発言していきたいと思っているのでなおさらである。それがどこまでできているかは読者の方々に判断していただくしかないだろう。

一周年ということで、「楽屋オチ」のようなブログの舞台裏の話がつい長くなってしまったが、この辺にしたいと思う。この場を借りて、日頃ブログを読んでいただいて、様々な機会にコメントや感想、激励して下さった方々へ心からのお礼申し上げたい。

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