言の葉綴り

私なりの心に残る言の葉を綴ります。

硝子戸の中ー地名から辿るーその2

2017-09-22 16:09:32 | 言の葉綴り
言の葉46 硝子戸の中
ー地名から辿るー その2
抜粋
硝子戸の中 夏目漱石著




二十一

私の家に関する私の記憶は、惣じてこういう風に鄙びている。そうして何処かに薄ら寒い憐れな影を宿している。だから今生き残っている兄から、つい此間(こないだ)、うちの姉達が芝居に行った当時の様子を聴いた時には驚いたのである。そんな派手な暮しをした昔もあったのかと思うと、私は愈々夢のような心持になるより外はない。
その頃の芝居小屋はみんな猿若町(*)にあった。電車も俥もない時分に、高田の馬場の下から浅草の観音様の先まで朝早く行き着こうと云うのだから、大抵の事ではなかったらしい。姉達はみんな夜半(よなか)に起きて支度をした。途中が物騒だというので、用心のため、下男がきっと供をして行ったそうである。
彼等は築土(*)を下りて、柿の木横町から揚場(*)へ出て、かねて其所の船宿にあつらえて置いた屋根船に乗るのである。私は彼等が如何に予期に充ちた心をもって、のろのろ砲兵工廠(*)の前からお茶の水を通り越して柳橋まで漕がれつつ行っただろうと想像する。しかも彼等の道中は決して其所で終りを告げる訳には行かないのだから時間に制限を置かなかったその昔が猶更回顧の種になる。
大川へ出た船は、流れを遡って吾妻橋(*)を通り抜けて、今戸の有明楼(*)の傍に着けたものだという。姉達は其所から上がって芝居小屋まで歩いて、それから漸く設けの席に就くべく、小屋へ送られて行く。設けの席というのは必ず高土間に限られていた。
これは彼等の服装(なり)なり顔なり、髪飾りなりが一般の眼によく着く便利のいい場所なので、派手を好む人達が、争って手に入れたがるからであった。(以下略)

解説
*猿若町
水野越前守の天保改革に江戸市内に分散していた芝居類の興行物を浅草聖天町の一郭に集中させた芝居町。現台東区浅草六丁目。



*筑土(つくど)
揚場町(次注参照)の西側の地域。『硝子戸の中』執筆時には牛込区
筑土八幡町や津久戸町に属す。

*揚場
牛込区揚場町にあった神田川の船着場。喜久井町の数キロ先。



*砲兵工廠
小石川区(現文京区)の後楽園の敷地にあった陸軍の兵器、弾薬を製造する工場。



*柳橋
神田川が隅田川に合流する手前の橋。またこの一帯にあった花柳街。



*吾妻橋
現、台東区浅草雷門ニ丁目から墨田区吾妻橋一丁目へ架かる橋。江戸時代は両国橋の上流に架かる次の橋。



*今戸の有明楼
浅草今戸橋(山谷堀が隅田川に合流する手前の橋)の袂にあった料理茶屋。俳優沢村訥升の経営といわれる。現台東区。



二十五

新潮日本文学アルバムより
団子坂(千駄木)



私がまだ千駄木(*)にいた頃の話だから、年数にするともう大分古い事になる。
或日私は切通し(*)の方へ散歩した帰りに、本郷四丁目(*)の角に出る代わりに、もう一つ手前の細い通りを北へ曲がった。その曲り角には其の頃あった牛屋の傍に、寄席の看板が何時でも懸かっていた。
雨の降る日だったので、私は無論傘をさしていた。それが鉄御納戸の八間の深張りで、上から洩ってくる雫が、自然木の柄を伝わって、私の手を濡らし始めた。人通りの少ないこの小路は、凡ての泥を洗い流したように、下駄の歯に引っ懸かる汚いものは殆んどなかった。それでも上を見れば暗く、下を見れば侘しかった。始終通りつけている所為でもあろうか、私の周囲には何一つ私の眼を惹くものは見えなかった。そうして私の心は能くこの天気とこの周囲に似ていた。私には私の心を腐食するような不愉快な塊が常にあった。私は陰鬱な顔をしながら、雨の降る中を歩いていた。
日蔭町の寄席(*)の前まで来た私は、突然一台幌俥に出会った。私と俥の間には何の隔りもなかったので、私は遠くからその中に乗っている人の女だという事に気がついた。まだセルロイドの窓などの出来ない時分だから、車上の女は遠くからその白い顔を私に見せていたのである。
私の眼にはその白い顔が大変美しく映った。私は雨の中を歩きながら凝とその人の姿に見惚れていた。同時にこれは芸者だろうという推察が、殆んど事実のように、私の心に働きかけた。すると俥が私の一間ばかり前に来た時、突然私を見ていた美しい人が、鄭寧な会釈を私にして通り過ぎた。私は微笑に伴うその挨拶とともに、相手が、大塚楠緒(*)さんであった事に、始めて気が付いた。
次に会ったのはそれから幾日目だったろうか、楠緒さんが私に、「この間は失礼しました」と云ったので、私は私の有のままを話す気になった。
「実は何処の美しい方かと思って見ていました。芸者じゃないかしらとも考えたのです。」
その時楠緒さんが何と答えたか、私はたしかに覚えていないけれども、楠緒さんは些とも顔を赧らめなかった。それから不愉快な表情も見せなかった。私の言葉をただそのままに受け取ったらしく思われた。
それからずっと経って、ある日楠緒さんがわざわざ早稲田へ訪ねて来てくれた事がある。然るに生憎私は妻(さい)と喧嘩をしていた。私は嫌な顔をしたまま、書斎に凝と座っていた。楠緒さんは妻と十分ばかり話をして帰って行った。
その日はそれで済んだが、程なく私は西片町(*)へ謝りに出掛けた。
「実は喧嘩をしていたのです。妻も定めて無愛想でしたろう。私は又苦々しい顔を見せるのも失礼だと思ってわざと引込んでいたのです。」
これに対する楠緒さんの挨拶も、今では遠い過去になって、もう呼び出す事の出来ない程、記憶の底に沈んでしまった。
楠緒さんが死んだという報知が来たのは、たしか私が胃腸病院にいる頃(*)であった。死去の広告中に、私の名前を使って差支ないかと電話で問い合された事などもまだ覚えている。
私は病院で「ある程の菊投げ入れよ棺の中」という手向けの句を楠緒さんの為に咏んだ。それを俳句の好きなある男が嬉しがって、わざわざ私に頼んで、短冊に書かせて持って行ったのも、もう昔になってしまった。

解説
*千駄木
本郷区(現文京区)駒込千駄木町五十七番地の家(当方注 現文京区向丘二丁目二十番七号)に漱石が住んだのは、英国から帰った明治三十六年三月から同三十九年十二月までで、約ハ年前。なおこの家は愛知県の博物館明治村に保存されている。



*切通し
上野不忍池の池之端から湯島切り通しを経て本郷四丁目の四つ角へ到る一帯。


*本郷四丁目
現文京区。東大に近く、漱石の小説にしばしば登場する。



*日蔭町の寄席
本郷区本郷四丁目の東裏にあった講釈亭「岩本亭」のことであろう。

*大塚楠緒
漱石の友人で美学者の大塚安治の妻。明治ハ年〜明治四十三年。美貌の才媛として知られ、小説『空薫』等が漱石の依頼で「朝日新聞」に掲載された。

*西片町
当時大塚家は本郷区西片町十番地にあった。西片町(現西片)。



*胃腸病院にいる頃
胃腸病院は麹町区(現千代田区)内幸町の長与胃腸病院。明治四十三年漱石は転地療養にいった伊豆修善寺温泉で重態となり、帰京後十月から翌四十四年二月までそこに入院していた。楠緒が転地先の大磯で死去したのは四十三年十一月九日だった。
『思い出す事など』に訃報を聞いた衝撃が記されている。