言の葉綴り

私なりの心に残る言の葉を綴ります。

硝子戸の中ー地名から辿るーその1

2017-09-15 14:06:01 | 言の葉綴り
言の葉45 硝子戸の中
ー地名から辿るー その1

抜粋
硝子戸の中 夏目漱石著





硝子戸の中(*)から外を見渡すと、霜除をした芭蕉だの、赤い実の結った梅もどきの枝など、無遠慮に直立した電信柱などがすぐ眼に着くが、その他にこれと云って数え立てる程のものは殆んど視線に入って来ない。書斎にいる私の眼界は極めて単調でそうして又極めて狭いのである。
その上私は去年の暮れから風邪を引いて殆んど表へ出ずに、毎日この硝子戸の中にばかり座っているので、世間の様子はちっとも分からない。心持ちが悪いから読書もあまりしない。私はただ座ったり寐たりしてその日その日を送っているだけである。
然し私の頭は時々動く。気分も多少変わる。いくら狭い世界の中でも狭いなりに事件が起こって来る。それから小さい私と広い世の中を隔離しているこの硝子戸の中へ、時々人が入って来る。それが又私にとっては思い掛けない人で、私の思い掛けない事を言ったり為たりする。私は興味に充ちた眼を持ってそれ等の人を迎えたり送ったりした事さえある。
私はそんなものを少し書きつづけてみようかと思う。(以下略)

注解
*硝子戸の中(うち)
『硝子戸の中』は、大正四年一月十三日から同年二月二十三日まで、東西の『朝日新聞』に連載された。その頃の漱石は牛込区(現新宿区)早稲田南町の、いわゆる漱石山房に住んでいた。(中略)
執筆の場は、板敷きの八畳の書斎に客用の八畳間が続いた部屋で、三方の壁にはガラス窓がはまり、その外を巡る手摺のついた縁側越しに庭が見える構造になっていた。漱石は板の間に絨毯を敷き、そこに座卓を据えていたが、訪問者には「荒れ果てた禅寺」(森田草平)という印象を与えた。(以下略)



十九

私の旧宅(*)は今私の住んでいる所から、四五町奥の馬場下(*)という町にあった。町とは云い条、その実小さな宿場町としか思われない位、小供の時の私には、寂れ切ってかつ淋しく見えた。もともと馬場下とは高田の馬場の下にあるいう意味なのだから、江戸絵図で見ても、朱引内か朱引外か分からない辺鄙な隅の方にあったに違いないのである。
それでも内蔵造の家が狭い町内に三四軒はあったろう。坂を上ると、右側に見える近江屋伝兵衛という薬種屋などはその一つであった。それから坂を下り切った所に、間口の広い小倉屋という酒屋もあった。尤もこの方は倉造りではなかったけれども、堀部安兵衛が高田の馬場で敵を打つ時に、此処へ立ち寄って、枡酒を飲んで打ったという履歴のある家柄であった。私はその話を小供の時分から覚えていたが、ついぞ其所に仕舞ってあるという噂の安兵衛が口を着けた枡を見たことがなかった。その代わり娘の御北さんの長唄は何度となく聞いた。私は小供だから上手だか下手だかまるで解らなかったけれども、私の宅の玄関から表へ出る敷石の上に立って、通りへでも行こうとすると、御北さんの声が其所から能く聞こえたのである。春の日の午過ぎなどに、私は恍惚とした魂を、麗らかな光に包みながら、御北さんのお浚いを聴くでもなく聴かぬでもなく、ぼんやり私の家の土蔵の白壁に身を凭せて、佇立んでいた事がある。そのお蔭で私はとうとう「旅の衣は鈴懸の」などという文句を何時の間にか覚えてしまった。
この外には棒屋が一軒あった。(以下略)

注解
*私の旧宅
漱石の生家。漱石は江戸牛込馬場横町で生まれた。次注参照。

*馬場下
牛込の地名。明治以前に馬場下町、馬場下横町があり、前者は現在まで存続し、馬場下横町は明治二年近隣の地区と共に牛込区喜久井町となった。



二十

この豆腐屋の隣に寄席が一軒あったのを、私は夢幻のようにまだ覚えている。こんな場末に人寄場のあろう筈がないというのが、私の記憶に霞を掛ける所為だろう。私はそれを思い出すたびに、奇異な感じに打たれながら、不思議そうな眼を見張って、遠い私の過去を振り返るのが常である。(中略)

当時私の家からまず町らしい町へ出ようとするには、どうしても人家のない茶畠とか、竹藪とか又は長い田圃路とかを通り抜けなければならなかった。買物らしい買物は大抵神楽坂(*)まで出る例になっていたので、そうした必要に馴らされた私に、さした苦痛のある筈もなかったが、それでも矢来の坂を上って酒井様(*)の火の見櫓を通り越して寺町に出ようという、あの五六町の一筋道などになると、昼でも陰森として、大空が曇ったように始終薄暗かった。
あの土手の上に二抱えも三抱えもあろうという大木が、何本となく並んで、その隙間々々をまた大きな竹藪が塞いでいたのだから、日の目を拝む時間と云ったら、一日のうちに恐らくただの一刻もなかったのだろう。下町へ行こうと思って、日和下駄などを穿いて出ようものなら、きっと非道い目にあうに極まっていた。あすこの霜融は雨よりも雪よりも恐ろしいもののように私の頭に染み込んでいる。
その位不便な所でも火事の虞はあったものと見えて、八張町の曲り角に高い梯子が立っていた。そうしてその上に古い半鐘も型の如く釣るしてあった。私はこうした有のままの昔をよく思い出す。その半鐘のすぐ下にあった小さな一膳飯屋もおのずと眼光に浮かんで来る。縄暖簾の隙間からあたたかそうな煮〆の香(におい)が煙(けぶり)と共に往来へ流れ出して、それが夕暮れの靄に溶け込んで行く趣なども忘れる事が出来ない。私が子規のまだ生きているうちに、「半鐘と並んで高き冬木哉」という句を作ったのは、実はこの半鐘の記念のためであった。


解説
* 神楽坂
現新宿区。喜久井町や早稲田南町の東に当たり、漱石の生家からは約二キロほどの距離。「明治から昭和初期まで山の手随一の繁華街」(角川地名大辞典」)。



*酒井様(矢来町)
牛込区矢来町の元小浜藩主酒井氏の邸宅をさす。酒井邸の垣の柵が矢来であったところから町や坂の名がおこった。




当方より
半世紀以上前上京して、新宿区の本塩町、改代町、弁天町に半年程住んだ。今回、「硝子戸の中」ー地名から辿るーの中で、その又半世紀前にはこの界隈が漱石の生活圏であった事に、往時の当方の地名や風景の記憶をかさねて強く惹かれた。