言の葉綴り

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京都発見②東山界隈その1…八坂の塔

2017-05-04 12:10:22 | 言の葉綴り
言の葉38 京都発見
② 東山界隈その1…八坂の塔

抜粋
京都発見 ニ 路地遊行 梅原猛著 発行所(株)新潮社 1998年2月発行

四十一…………浄蔵と八坂の塔



五重の塔といえば、京都の人は東寺の五重の塔より、八坂の五重の塔を思い浮かべる。この「八坂の塔」は今は法観寺という臨済宗建仁寺派の塔頭の一つとなっている。その由来は古い。

当方より 4月26日法観寺を訪ねた折の映像



法観寺に伝わる『山城州東山法観寺仏舎利塔記』によれば、聖徳太子は四天王寺を建てようと用材を求めた。その地が山城国のか愛宕(おたぎ)であった。時にまだ、彼の地は鬱蒼とした大樹が聳える深い山であった。その時、夢に太子の念持仏・如意輪観音が現れ、この地こそ勝地であるので、ここに寺を建てるがよいと、告げられた。そこは、見晴らしが良く、紫の雲が山一面に立ち籠めていた。そこで太子はこの愛宕の地に五重の塔を建て、仏舎利を安置した。この時を『仏舎利塔記』では、崇峻天皇己酉の年即ち崇峻二年(五八九)とする。とすれば、法観寺は京都で最も古いということになる。
三条烏丸下ルの六角堂にも、太子が四天王寺建立のためこの地に来て杉の巨樹を見付け、その一木で六角の御堂を建てたとある。建造の由来が甚だ法観寺に似ているが、当時この愛宕即ち東山辺りはおそらく六角堂の辺りよりなおいっそう欝蒼たる原始の森であったろうことを考えると、四天王寺建立の時に太子が東山に来たというのは頷ける。この法観寺の周囲で飛鳥時代の瓦が出土していることも、伝説の真実性を裏付けるものであろう。
八坂の塔は古来よりそこにあったものであろうが、八坂の塔と言う時、まず想起する人物は太子よりは浄蔵という僧であった。浄蔵は現代の仏教史などにあまり出てこないが、
かっては大変な高僧として上下にあまねく尊敬されていた。彼は三好清行の第八子で、母は嵯峨天皇の孫と伝えられ、天人が懐の中にいり、浄蔵を姙んだという。幼にして聡明、四歳にして「千字文」を読み、七歳にして出家した。
浄蔵には色々不思議な話が伝えられる。延喜九年(九〇九)浄蔵十八歳の時、菅原道真の怨霊に苦しんだ藤原時平が浄蔵をして祈祷せしめたところ、二匹の青龍が時平の左右の耳から出て、「私は恨みを報いようとしたが、浄蔵の法力で抑えられている。厳しく叱ってほしい。」と言った。そして浄蔵が去った後、時平が死んだ。また浄蔵は、平将門の乱においては大威徳法を修し、将門を調伏した。

この浄蔵が八坂の塔を救った。村上天皇の御代、塔は天皇のいらっしゃる王城に向いて傾いた。これは不吉な兆しと、浄蔵に頼んで祈祷させた。微風が吹き、雷鳴が轟き、塔が振動して鈴が鳴った。浄蔵は本坊に帰ってしまったが、翌朝、弟子たちが見ると、塔は真っ直ぐになっていた。都の人は争って合掌し、この奇跡を喜んだ。『仏舎利塔記』では、浄蔵を最も詳しく語るが、その後の源頼朝や足利将軍による塔の修理の話も載せる。
法観寺にはまた室町時代のものと思われる「城州八坂法観寺之古図」という「参拝曼荼羅」があるが、これは大変興味深い。八坂の塔を中心にして北は長楽寺・双林寺・八坂神社、南は清水寺・鳥部(辺)野・六波羅、東は霊山正法寺、西は鴨川に至る。この一帯は正に「この世」に対して「あの世」である。鴨川に架かる四条と五条の二つの橋には勧進聖がいて、長柄杓を出して銭を取っている。あの世に渡るには六文銭が必要というのであろう。清水坂の途中に鳥部野があり、墓がいっぱい並んでいる。おそらくそこは昔から人の屍を捨てた所で、その面影がこの頃にはまだ残っていたのであろう。鳥部野の左には三世川という名の川が流れているが、それが三途の川なのであろう。今の清水坂辺りであろうか。
絵図の中心は浄蔵が塔を立て直し、衆人がそれを驚いて眺めている図である。浄蔵には二人の子供が寄り添っている。この浄蔵という高僧は妻を持ち、そして二人の子を設けた。浄蔵はいわば破戒僧であるが、それが却って彼の霊力を人々に認めさせたのであろうか。また、この浄蔵の弟、或いは叔父に当たる日蔵は、先に述べた浄蔵と時平の話を載せる「北野天神縁起」などに、醍醐天皇が死んだ後、地獄へ行って天皇と出会った話を語った人である。日蔵は巧みな説話の語り手であった。とすると、時平と浄蔵の話も或いは彼の創作であったのかも知れない。
江戸時代までこの法観寺即ち八坂の塔に、京都の人は五層まで上って町の遠望を楽しんだらしいのである。今は二層までしか上がれず、いささか寂しい。
(以下、略)
当方より 4月26日に八坂の塔を訪ねた折の映像