言の葉綴り3
海行かばー内兵の誇りー (大伴氏の言立て)
詩の自覚の歴史ー遠き世の詩人たちー 山本健吉著 筑摩書房 昭和54年
日本詩人選 5 大伴家持
山本健吉著 筑摩書房 昭和46年
抜粋その1
大伴氏の言立て
詩の自覚の歴史第二十章
大伴家持より
天平二十一年(七四九)、大仏の鋳造完成が真近かになりながら、それに塗る黄金がなかったが、二月になって、陸奥の国で黄金が出たという報せがあった。驚喜した天皇(聖武天皇)は、……そのことを謝する宣命を発し、…同じく百官への長文の宣命を発し、その中に諸氏の功績を述べ、とくに大伴、佐伯両氏のともがらに対する深い信頼が述べられていた。
そして、古くから大伴氏に伝えられている言立が、その中に折りこまれていた。その宣命に言う。
「……又大伴佐伯の宿禰は常にも云ふ如く、天皇が朝守り仕え奉る事顧なき人等にあれば、汝たちの祖どもの云ひ来らく、海行かば美豆く屍、山行かば草牟す屍、王の幣にこそ死め、のどには死なじ、、と云い来る人等となも聞し召す。是を以て遠天皇の御世を始めて、今朕が御世に当たりても、内兵と心中してことはなも遣わす。……」
この報を得て感激した家持は、長い一篇の賀歌を作って、宣命をパラフレーズするような形で、大伴、佐伯の氏人たち、または部下の役人たち示す。
陸奥の国より金出せる詔書を賀く歌一首
……大伴の遠つ神祖の、その名を ば大来目主と、負い持ちて仕え官、
海行かば水漬く屍、山行かば草生す屍、大皇の辺にこそ死なめ、顧はせじと言立て、 大夫の 清き彼の名を、いにしへよいまの現に、流さへる祖の子等そ。大伴と佐伯の氏は、人の祖の立つる言立て、人の子は祖の名絶たず、大君にまつろふものと、言い継げる言の司そ。梓弓手にとりもちて、剣太刀腰にとりはき、朝まもり夕のまもりに、大王のみ門のまもり、われをおきて人はあらじと、いや立て思いしまさる、大皇の御言の幸の、聞けば貴み(巻十八四〇九四)
抜粋その2
海行かばー内兵の誇りー
日本詩人選5 大伴家持より
……この詔詞と家持の賀歌とを較べてみると、まるで「割り符を合せる様」(折口信夫氏「日本文学の発生ーその基礎編ー」)な一致が見られるのである。折口氏は言う、「恐らく此時代には、詔詞が発せられると、族長•国宰の人々は、かうした形式で、己が部下に伝達したものと思われる。其と同時に、その氏•国の特殊な歴史と結びつけて表す風があったのである。」(同上)
家持の長歌も、聖武天皇の詔詞のパラフレーズの意図をもって作られたもので、大伴氏の特殊な歴史に照らして、その部分をクローズアップしたものである。ことに、大伴氏に古くから伝承され、宮廷とのかくべつ親密な関係を見せている言立が詔詞の中に織りこまれたこと、ことに天皇が、大伴•佐伯のともがらを「内兵(うちのいくさ)と心中(こころのうち)のことはなも遣わす」と言われたことは、家持等の泣きどころに触れたものであった。その感激が家持をして、この長篇の詞章を作らせ、ことに彼等にとって「生命の指標」とも言うべき「海行かば」の言立を、最後の一句を換えながらもう一度繰り返させた。この一句の入れ換えで、この詞章が数層倍生命あるものとなったことは、誰しも認めることだろう。「顧みはせじ」との一句は、「天皇(すめら)が朝(みかど)守り仕へ奉る事顧みなき人等にあれば」と言う一節に呼応している。……
海行かばー内兵の誇りー (大伴氏の言立て)
詩の自覚の歴史ー遠き世の詩人たちー 山本健吉著 筑摩書房 昭和54年
日本詩人選 5 大伴家持
山本健吉著 筑摩書房 昭和46年
抜粋その1
大伴氏の言立て
詩の自覚の歴史第二十章
大伴家持より
天平二十一年(七四九)、大仏の鋳造完成が真近かになりながら、それに塗る黄金がなかったが、二月になって、陸奥の国で黄金が出たという報せがあった。驚喜した天皇(聖武天皇)は、……そのことを謝する宣命を発し、…同じく百官への長文の宣命を発し、その中に諸氏の功績を述べ、とくに大伴、佐伯両氏のともがらに対する深い信頼が述べられていた。
そして、古くから大伴氏に伝えられている言立が、その中に折りこまれていた。その宣命に言う。
「……又大伴佐伯の宿禰は常にも云ふ如く、天皇が朝守り仕え奉る事顧なき人等にあれば、汝たちの祖どもの云ひ来らく、海行かば美豆く屍、山行かば草牟す屍、王の幣にこそ死め、のどには死なじ、、と云い来る人等となも聞し召す。是を以て遠天皇の御世を始めて、今朕が御世に当たりても、内兵と心中してことはなも遣わす。……」
この報を得て感激した家持は、長い一篇の賀歌を作って、宣命をパラフレーズするような形で、大伴、佐伯の氏人たち、または部下の役人たち示す。
陸奥の国より金出せる詔書を賀く歌一首
……大伴の遠つ神祖の、その名を ば大来目主と、負い持ちて仕え官、
海行かば水漬く屍、山行かば草生す屍、大皇の辺にこそ死なめ、顧はせじと言立て、 大夫の 清き彼の名を、いにしへよいまの現に、流さへる祖の子等そ。大伴と佐伯の氏は、人の祖の立つる言立て、人の子は祖の名絶たず、大君にまつろふものと、言い継げる言の司そ。梓弓手にとりもちて、剣太刀腰にとりはき、朝まもり夕のまもりに、大王のみ門のまもり、われをおきて人はあらじと、いや立て思いしまさる、大皇の御言の幸の、聞けば貴み(巻十八四〇九四)
抜粋その2
海行かばー内兵の誇りー
日本詩人選5 大伴家持より
……この詔詞と家持の賀歌とを較べてみると、まるで「割り符を合せる様」(折口信夫氏「日本文学の発生ーその基礎編ー」)な一致が見られるのである。折口氏は言う、「恐らく此時代には、詔詞が発せられると、族長•国宰の人々は、かうした形式で、己が部下に伝達したものと思われる。其と同時に、その氏•国の特殊な歴史と結びつけて表す風があったのである。」(同上)
家持の長歌も、聖武天皇の詔詞のパラフレーズの意図をもって作られたもので、大伴氏の特殊な歴史に照らして、その部分をクローズアップしたものである。ことに、大伴氏に古くから伝承され、宮廷とのかくべつ親密な関係を見せている言立が詔詞の中に織りこまれたこと、ことに天皇が、大伴•佐伯のともがらを「内兵(うちのいくさ)と心中(こころのうち)のことはなも遣わす」と言われたことは、家持等の泣きどころに触れたものであった。その感激が家持をして、この長篇の詞章を作らせ、ことに彼等にとって「生命の指標」とも言うべき「海行かば」の言立を、最後の一句を換えながらもう一度繰り返させた。この一句の入れ換えで、この詞章が数層倍生命あるものとなったことは、誰しも認めることだろう。「顧みはせじ」との一句は、「天皇(すめら)が朝(みかど)守り仕へ奉る事顧みなき人等にあれば」と言う一節に呼応している。……