言の葉9 晩春の別離
島崎藤村詩集 山室 静 編
世界の詩 14 彌生書房
詩集 夏草 晩春の別離 より
時は暮れ行く春よりぞ
また短きはなかるらん
恨みは友の別れより
さらに長きはなかるらん
君を送りて花近き
高楼までもきて見れば
緑に迷う鶯は
霞空しく鳴きかへり
白き光は佐保姫の
春の車駕を照らすかな
これより君は行く雲と
ともに都を立ちいでて
懐えば琵琶の湖の
岸の光にまよふとき
東胆吹の山高く
西には比叡比良の峯
日は行き通ふ山々の
深きながめをふしあふぎ
いかにすぐれし想をか
沈める波に湛ふらん
流れは空し法皇の
夢杳かなる鴨の水
水にうつろふ山城の
みやびの都行く春の
霞めるすがた見つくして
畿内に迫る伊賀伊勢の
鈴鹿の山の波遠く
海に落つるを望むとき
いかに万の恨みをば
空行く鷲に窮むらん
春去り行かば青丹よし
奈良の都に尋ね入り
としつき君がこひ慕ふ
御堂のうちに遊ぶとき
古き芸術の花の香の
伽藍の壁に遺りなば
いかに韻を身にしめて
深き思に沈むらん
さては秋津の島が根の
南の翼紀の国を
回りて進む黒潮の
鳴門に落ちて行くところ
天際遠く白き日の
光を泄らす雲裂けて
目にはるかなる遠海の
波の躍るを望むとき
いかに胸打つ音高く
君が血潮はさわぐらん
また名に負ふ歌枕
波に千とせの色映る
明石の浦のあさぼらけ
松万代の音に響く
舞子の浜のゆふまぐれ
もしそれ海の雲落ちて
淡路の島の影暗く
狭霧のうちに鳴き通ふ
千鳥の声をきくときは
いかに浦辺にさすらいて
遠き古を忍ぶらん
げに君がため山々は
雲を停めん浦々は
磯に流るゝ白波を
揚げんとすらんよしさらば
旅路はるかに野辺行かば
野辺のひめごと森行かば
森のひめごとさぐりもて
高きに登り天地の
もなかに遊び大川の
流れを窮め山々の
神を呼ばひ谷々の
鬼をも起し歌人の
魂をも遠く返しつゝ
清しき声をうちあけて
朽ちせぬ琴をかき鳴らせ
あゝ歌神の吹く気息は
絶えてさびしくなりにけり
ひゞき空しき天籟は
いづくにかある
九つの
芸術の神のかんづまり
かんさびませしとつくにの
阿典の宮殿に玉垣も
今はうつろひかはりけり
草の緑はグリイスの
牧場を今も覆ふとも
みやびつくせしいにしへの
笛のしらべはいづくぞや
かのバビロンの水青く
千歳の色をうつすとも
柳に懸けしいにしへの
琴は空しく流れけり
げにや大雅をこひ慕ふ
君にしあれば君がため
芸術の天に懸かる日も
時を導く星影も
いづれ行くへを照らしつゝ
深き光を示すらん
さらば名残りはつきずとも
袂を別つ夕まぐれ
みよ影深き欄干に
煙をふくむ藤の花
北行く雁は大空の
霞に沈み鳴き帰り
彩なす雲も愁いつゝ
君を送るに似たりけり
あゝいつかまた相逢うて
もとの契りをあたゝめむ
梅も桜も散りはてゝ
すでに柳はふかみどり
人はあかねど行く春を
いつまでこゝにとゞむべき
われに惜しむな家づとの
一枝の筆の花の色香を
註、君=島崎藤村
われ=北村透谷
とされる。
島崎藤村詩集 山室 静 編
世界の詩 14 彌生書房
詩集 夏草 晩春の別離 より
時は暮れ行く春よりぞ
また短きはなかるらん
恨みは友の別れより
さらに長きはなかるらん
君を送りて花近き
高楼までもきて見れば
緑に迷う鶯は
霞空しく鳴きかへり
白き光は佐保姫の
春の車駕を照らすかな
これより君は行く雲と
ともに都を立ちいでて
懐えば琵琶の湖の
岸の光にまよふとき
東胆吹の山高く
西には比叡比良の峯
日は行き通ふ山々の
深きながめをふしあふぎ
いかにすぐれし想をか
沈める波に湛ふらん
流れは空し法皇の
夢杳かなる鴨の水
水にうつろふ山城の
みやびの都行く春の
霞めるすがた見つくして
畿内に迫る伊賀伊勢の
鈴鹿の山の波遠く
海に落つるを望むとき
いかに万の恨みをば
空行く鷲に窮むらん
春去り行かば青丹よし
奈良の都に尋ね入り
としつき君がこひ慕ふ
御堂のうちに遊ぶとき
古き芸術の花の香の
伽藍の壁に遺りなば
いかに韻を身にしめて
深き思に沈むらん
さては秋津の島が根の
南の翼紀の国を
回りて進む黒潮の
鳴門に落ちて行くところ
天際遠く白き日の
光を泄らす雲裂けて
目にはるかなる遠海の
波の躍るを望むとき
いかに胸打つ音高く
君が血潮はさわぐらん
また名に負ふ歌枕
波に千とせの色映る
明石の浦のあさぼらけ
松万代の音に響く
舞子の浜のゆふまぐれ
もしそれ海の雲落ちて
淡路の島の影暗く
狭霧のうちに鳴き通ふ
千鳥の声をきくときは
いかに浦辺にさすらいて
遠き古を忍ぶらん
げに君がため山々は
雲を停めん浦々は
磯に流るゝ白波を
揚げんとすらんよしさらば
旅路はるかに野辺行かば
野辺のひめごと森行かば
森のひめごとさぐりもて
高きに登り天地の
もなかに遊び大川の
流れを窮め山々の
神を呼ばひ谷々の
鬼をも起し歌人の
魂をも遠く返しつゝ
清しき声をうちあけて
朽ちせぬ琴をかき鳴らせ
あゝ歌神の吹く気息は
絶えてさびしくなりにけり
ひゞき空しき天籟は
いづくにかある
九つの
芸術の神のかんづまり
かんさびませしとつくにの
阿典の宮殿に玉垣も
今はうつろひかはりけり
草の緑はグリイスの
牧場を今も覆ふとも
みやびつくせしいにしへの
笛のしらべはいづくぞや
かのバビロンの水青く
千歳の色をうつすとも
柳に懸けしいにしへの
琴は空しく流れけり
げにや大雅をこひ慕ふ
君にしあれば君がため
芸術の天に懸かる日も
時を導く星影も
いづれ行くへを照らしつゝ
深き光を示すらん
さらば名残りはつきずとも
袂を別つ夕まぐれ
みよ影深き欄干に
煙をふくむ藤の花
北行く雁は大空の
霞に沈み鳴き帰り
彩なす雲も愁いつゝ
君を送るに似たりけり
あゝいつかまた相逢うて
もとの契りをあたゝめむ
梅も桜も散りはてゝ
すでに柳はふかみどり
人はあかねど行く春を
いつまでこゝにとゞむべき
われに惜しむな家づとの
一枝の筆の花の色香を
註、君=島崎藤村
われ=北村透谷
とされる。