ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

古代からの暗号 キルギス人が日本人を兄弟という理由か?弓月城(秦氏の故地)

2022-02-25 09:21:23 | 日本文化・文学・歴史

前回は偶然に日本書紀と風土記に残されていた歴木(くぬぎ)と楝(おうち)の巨樹伝承から狗奴国の位置を確定出来たと思いますが、
昨年来私の関心事は九州の著名な神社の神木が樟(楠・くすのき)であることから、九州の原義は<樟の国>と思われさらに<暗号・秋の七草>の<葛>
の解である<国栖・国巣・国主>と繋がる図式が成り立つと推量しましたが、肝心な国栖とは何かが分からずにおり<暗号・秋の七草>の謎解きの原点に
戻って<尾花(茅)=伽耶>の例から<葛=国栖>も<クズ>という民族又は国の名を秘めているのでは?と思い探すことにしました

なんと、数あるアジアの古代民族の中に<クルグズ>と自称する人々がいました。現在は中国の天山山脈を境界としその北側にあるのが彼らの国<キルギス>
です。国名は知っていたものの他は白紙状態なのでネットで検索してみるとエッ!!と驚くべき記事がありました。
* 在京キルギス大使館の開館セレモニーの挨拶で披露されたという伝説です
  「大昔、キルギス人と日本人が兄弟で、肉が好きな者はキルギス人となり、魚が好きな者は東に渡って日本人になった。」と。キルギス人の間では誰もが
  知っている伝承で、親日的な国民であると言う。
* キルギス人は黒い髪、黒い瞳、黄色い肌であり、顔だちも日本人と似ていて日本人旅行者はキルギス人と間違われる事もあるらしい。
* 女性は美人が多いとのネットの声は多い。
  現代のキルギス女性は確かに目鼻立ちのクッキリした美人が多いがウイグルやトルコやロシア系との混血が進んでいるようにも見えます。

現代の<キルギス>とはロシア語による呼称でキルギス語では<クルグズ>、中国では少数民族のひとつで<柯爾克孜>と表記しているが、中国古代の歴史書
には<堅昆・黠戞斯>と表記され、秦漢の頃南シベリアのエニセイ川上流(バイカル湖の西1000㎞のアバカン周辺一帯)で遊牧生活をしていて匈奴に服属して
いた。遊牧民であったクルグズ族は移動を重ねながら匈奴や突厥やウイグルなどの支配下に置かれたりもしたが、現在は中国の新疆自治区と天山山脈を境界と
しその北方にキルギス国がある。

長い遊牧生活の中で移動、移住が進み、クルグズ族は居住地ごとに分けて呼称されている。
 ① エニセイ・キルギス・・・コーカソイド(コーカサス地方出自の人種。アーリア人、セム人、ハム人)の風貌を持っている人。
 ② 天山・キルギス・・・天山山脈やパミール高原に居住しているクルグズ人については三つの説がある。
   イ 10世紀以上民族の移動を経て天山地方に移住した人。
   ロ キルギス人は古代から天山地方に住んでいた。
   ハ キマクキルギス或いは東部キプチャクがキルギスのアイデンティティーを受け継いでキルギスを冠し天山地方に住んだ。
 ③ ハカス・・・唐代に<黠戞斯>などと書かれたシベリアのエニセイ川(民族発祥の地)付近に残ったクルグズの子孫たちと考えられている。

上記のようにクルグズ族は源流は同じでも多様な地域に移り住んでいるが、彼らの間で広く語られているのに、我々日本人には寝耳に水の<昔は兄弟だった>
という伝説。しかし、そう語られるだけの理由が確かにある事に気が付きました。


上図は『敦煌の民族と東西交流』(栄新江著・高田時雄監訳・西村陽子訳・2012年・株 東方書店)中の<漢代のシルクロード>を図示した地図ですが、
天山山脈のすぐ北方に<弓月城>という表記を見つけました。<弓月国>は謎多き渡来氏族<秦氏の故地>と言われているのです。弓月城を地図と照合しな
がら確認すると、キルギスのイシク・クル湖から北東方面に50〜60㎞と思われ、現在はカザフ共和国内ですがクルグズ族の聖山と思われるハンテングリ山
(6995m)から約200㎞ほどにありました。

日本書紀・応神天皇14年条には帰化系の雄族である秦氏の祖先の渡来伝承があり「己が国の民120県をひきいて帰化したいが、新羅が邪魔しており皆加羅
の国に留まっている」と訴えて来たので、「弓月の民を力ずくでも連れ帰るように」と精兵を授けて平群木菟宿禰と的戸田宿祢を加羅に派遣し、首尾よく
新羅から連れ帰る事が出来たと記されています。その後、弓月の民は朝津間の掖上に居住したと伝えられており、その地は葛城氏の本拠地でした。
しかし、渡来した直後に120県の弓月の民を大和に受け入れるのは容易ではないはずで、加羅から渡来した弓月の民は九州に上陸した後九州内に定住させる
事が最も自然で容易なわけで、そこは豊前の豊の国であろうと思います。

実際に日本書紀には記されていないが『隋書』に推古天皇によって小野妹子が隋に遣使された記事があり、その妹子の帰国に際して煬帝(ようだい)は隋の
使者を倭国へ派遣する事にし、その使者(裴世清)が倭の王朝へ至るまでのルートが明かされており「まず、百済を度り、竹島、耽羅、対馬,壱岐を経て
筑紫国に到着、さらに<東へ進んで秦王国に至る。>その様は華夏(中華・中国)に同じであったので夷州(戎の国)かと疑いを持ったが、明らかに出来
なかった。また十余国を経て海岸に達す。」と述べている。

「秦王国」を不明とする本もあるが裴世清らが「秦王国」と伝え聞いたのであれば私は疑いなく九州の東海岸に面した<豊の国>を指していると思われます。
豊前が秦王国であろうと考える理由は大宝2年(703年)の豊前国の戸籍に記されていた部民は秦部が圧倒的多数を占めていたのです。

天山山脈の北側にある弓月国の民<クルグズ>が朝鮮半島を経て渡来したのが応神朝であれば推古天皇の年代までは250年位経っている訳であり、日本に定住し
シルクロード文化と東西の物品流通の交差点で得た知識と富を生み出し九州に<秦王国>と呼ばれる程の集団に成長したと思われる秦氏ですが、現代のような
交通手段のない古代に突然120県の民を連れて西域からアジアの東の果ての倭国へ来る事など考えられませんから<クルグズ>と倭にはそれ以前から強い絆が
あったと思われ、それが日本書紀に神武天皇即位前記の吉野国巢部や応神天皇19年条に記されている国巢人があり大和朝廷成立以前の列島住民の一種族で
あったと思われます。

九州は<くずの国>であろうと考えていましたが、対馬にも<クズ>の痕跡としてクズの付く地名が3ケ所(2021.10.28の当ブログ参照)さらに豆酸に「多久頭
(魂)神社」佐護に「天神多久頭魂神社」と<クズ魂>を祀る神社(2021.9.28当ブログ参照)がありました。
そして<多久頭神>は<紀(木)国造>の祖神と伝えられていました。

紀氏とは紀伊国(現和歌山県)の国造の家柄ですが、地方氏族でありながら『古事記』や『日本書紀』に頻繫に登場する政治的に有力な紀直氏です。
対馬の多久頭魂神社の祭神が紀氏の祖であると知った事は大変重要な情報でした。古事記の伝える紀氏の祖先伝承によると第八代孝元天皇の皇子・比古布都押之
信命が木(紀)国造の祖・宇豆比古の妹・山下影日売を娶り生まれた子が建(武)内宿禰。建内宿禰は下図のように9氏族の祖となりました。

上記の木角宿祢は紀氏。葛城長江曾都毘古は葛城襲津彦のことですが系図上では紀氏と葛城氏は兄弟とされますが紀氏が<クズ魂>であれば葛城襲津彦も<クズ・
国栖>に属し、兄弟というよりはクルグズ族(同族)であるというサインでしょう。秦氏を受け入れた時に登場した葛城襲津彦・平群木菟宿禰・的戸田宿禰(葛
城氏の同族)は紀氏と同族の仲間たちでした。彼らがいつ頃何処から日本列島へきたのかは分かりませんが、彼らは対馬と日向と大和に古式の柄鏡式古墳を
残していた可能性があり次回に続けます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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