出雲国造神賀詞の中で、飛鳥の神奈備に坐す<賀夜奈流美命>とは、奈良県明日香
村の栢森(かやのもり)に坐す加夜奈流美神社の祭神である。この神名は諏訪神社
の建御名方神と同様に、史書には全く記されない謎の神であるが、<秋の七草>の
<茅・伽耶>と係わる唯一の神名を持っている。
そして賀夜奈流美命の名が思いがけないところに記されていた。
岡山県岡山市の吉備津神社の社伝によると、賀夜臣奈流美が中山の麓に<茅葺宮>
を営み吉備津彦神を祀ったのが神社の起こりだとしている。
岡山地方は明治以前は播磨国であった。八世紀初頭の『播磨国風土記』には、大国
主神が伊和大神・葦原志許乎(あしはらしこお)・男汝神(おおなむち)・出雲大
神などの名で様々な伝承が語られており、出雲系と考えられている。
が、五世紀ごろには墳丘長約350メートルの造山古墳など巨大古墳を造営し、大和
の大王家と並ぶ勢力を有したであろう吉備国(現岡山県と広島県東部)であった。
その吉備の男(王)の意味である吉備津彦を祀っているのが吉備津神社である。
吉備津彦命は『日本書記』によると孝霊天皇の皇子で崇神天皇の時に西の荒ぶる者
を平定するために派遣された四道将軍の一人。
『古事記』では孝霊天皇に命じられた大吉備津日子命が、異母弟の若建吉備津日子
命とともに播磨で戦勝祈願をし、吉備国を平定したとあり、六世紀以降に大和勢力
に組み込まれたためか、吉備国を征服した者が祭神とされている。
しかし、吉備津神社の祭祀をするのは吉備氏ではなく賀陽(かや)氏。創建の社伝
も賀陽臣であり、吉備津神社は加夜津神社で、加夜国賀陽氏を祭祀する祠堂であろ
うと考える人も多い。
吉備加夜国の領域には栢野・栢寺・栢山・蚊屋等の地名も多く、朝鮮半島南部にあ
った伽耶国からの移住民が開拓し定住した歴史があってつけられた地名だと思われ
る。この吉備加夜国を造った人々を知る手がかりとなるだろう興味深い考古学の資
料がある。しかし、その前に<天津日高日子波限(なぎさ)建鵜葺草葺不合命>の
<鵜葺草(うがや)>の意味を考えてみたい。
前に<鵜>とは<海人>の比喩的表現ではないかと述べたが、中国の史書『三国
志』(魏・蜀・呉の三国が鼎立した紀元220年から280年間の歴史を陳寿が著
した史書)の<魏志東夷伝・倭人条>に描かれた弥生時代の倭人の姿は、
<対馬は千余戸。良田なく、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴(して
き)す>
<末廬(まつら)国の人は、好んで魚鰒(ぎょふく・鮑)を捕うるに水の深浅と
なく、みな沈没して取る>
<男子は大小となく皆黥面(げいめん・顔の入れ墨)・文身(ぶんしん・体の入
れ墨)す。倭の水人は好んで沈没し魚・蛤を捕うるに、文身はまた以て大魚・
水禽を厭(はら)い、後に稍以て飾りとなす。諸国の文身は各々異なり、或い
は大或いは小にして、尊卑に差あり>
と海に潜って魚を取る様子が記されている。
その倭人を鵜と比喩することは可能だろう。
では、<鵜葺草>を<倭の海人の伽耶>と考えることは可能だろうか?
これを鳥越憲三郎著『中国正史・倭人・倭国伝』(2004年中公新社)の<倭族>の
概念で捉えるとわかりやすい。氏は
「倭人という語の起こりは、黄河流域を原住として政治的・軍事的に覇権を掌握
した民族が、とりわけ秦・漢の時代以降、彼らの迫害によって四散亡命した
長江流域の原住民に対して、蔑んでつけた卑称であって、彼らの移動分布は
長江流域・ネパール東部・東南アジア全域・中国の山東省・江蘇省・朝鮮半島
中、南部・日本列島におよぶ」
という。
村の栢森(かやのもり)に坐す加夜奈流美神社の祭神である。この神名は諏訪神社
の建御名方神と同様に、史書には全く記されない謎の神であるが、<秋の七草>の
<茅・伽耶>と係わる唯一の神名を持っている。
そして賀夜奈流美命の名が思いがけないところに記されていた。
岡山県岡山市の吉備津神社の社伝によると、賀夜臣奈流美が中山の麓に<茅葺宮>
を営み吉備津彦神を祀ったのが神社の起こりだとしている。
岡山地方は明治以前は播磨国であった。八世紀初頭の『播磨国風土記』には、大国
主神が伊和大神・葦原志許乎(あしはらしこお)・男汝神(おおなむち)・出雲大
神などの名で様々な伝承が語られており、出雲系と考えられている。
が、五世紀ごろには墳丘長約350メートルの造山古墳など巨大古墳を造営し、大和
の大王家と並ぶ勢力を有したであろう吉備国(現岡山県と広島県東部)であった。
その吉備の男(王)の意味である吉備津彦を祀っているのが吉備津神社である。
吉備津彦命は『日本書記』によると孝霊天皇の皇子で崇神天皇の時に西の荒ぶる者
を平定するために派遣された四道将軍の一人。
『古事記』では孝霊天皇に命じられた大吉備津日子命が、異母弟の若建吉備津日子
命とともに播磨で戦勝祈願をし、吉備国を平定したとあり、六世紀以降に大和勢力
に組み込まれたためか、吉備国を征服した者が祭神とされている。
しかし、吉備津神社の祭祀をするのは吉備氏ではなく賀陽(かや)氏。創建の社伝
も賀陽臣であり、吉備津神社は加夜津神社で、加夜国賀陽氏を祭祀する祠堂であろ
うと考える人も多い。
吉備加夜国の領域には栢野・栢寺・栢山・蚊屋等の地名も多く、朝鮮半島南部にあ
った伽耶国からの移住民が開拓し定住した歴史があってつけられた地名だと思われ
る。この吉備加夜国を造った人々を知る手がかりとなるだろう興味深い考古学の資
料がある。しかし、その前に<天津日高日子波限(なぎさ)建鵜葺草葺不合命>の
<鵜葺草(うがや)>の意味を考えてみたい。
前に<鵜>とは<海人>の比喩的表現ではないかと述べたが、中国の史書『三国
志』(魏・蜀・呉の三国が鼎立した紀元220年から280年間の歴史を陳寿が著
した史書)の<魏志東夷伝・倭人条>に描かれた弥生時代の倭人の姿は、
<対馬は千余戸。良田なく、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴(して
き)す>
<末廬(まつら)国の人は、好んで魚鰒(ぎょふく・鮑)を捕うるに水の深浅と
なく、みな沈没して取る>
<男子は大小となく皆黥面(げいめん・顔の入れ墨)・文身(ぶんしん・体の入
れ墨)す。倭の水人は好んで沈没し魚・蛤を捕うるに、文身はまた以て大魚・
水禽を厭(はら)い、後に稍以て飾りとなす。諸国の文身は各々異なり、或い
は大或いは小にして、尊卑に差あり>
と海に潜って魚を取る様子が記されている。
その倭人を鵜と比喩することは可能だろう。
では、<鵜葺草>を<倭の海人の伽耶>と考えることは可能だろうか?
これを鳥越憲三郎著『中国正史・倭人・倭国伝』(2004年中公新社)の<倭族>の
概念で捉えるとわかりやすい。氏は
「倭人という語の起こりは、黄河流域を原住として政治的・軍事的に覇権を掌握
した民族が、とりわけ秦・漢の時代以降、彼らの迫害によって四散亡命した
長江流域の原住民に対して、蔑んでつけた卑称であって、彼らの移動分布は
長江流域・ネパール東部・東南アジア全域・中国の山東省・江蘇省・朝鮮半島
中、南部・日本列島におよぶ」
という。