ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

謎解き詠花鳥和歌 女郎花と鵲ー17

2010-07-17 10:35:03 | 日本文化・文学・歴史
天火明命の二人の子供から尾張系と物部系とに分かれているが、この両者の間に争いが起き
八岐大蛇退治の説話が生まれた可能性を考えている最中に夫の弟の訃報が入った。

友人たちと話をしてみるとどこの家にも一家を悩ませる親族を抱えているらしいことは判っ
てきたけれど、義弟は妻子にも見捨てられ孤独の中、人知れず死を迎えていた。
哀れと思う反面、これまで続けてきた義弟の不始末のしりぬぐいから解放されると思うと、
皆ほっとした面もある。親族だけの葬儀をし、離婚後私とは音信不通だった義弟の妻子にも
会ったが、甥も姪も良き伴侶を得て幸せなカップルに見えた。離婚をすることによって義弟
の妻子は借金取り立て地獄から逃れられたけれど、母に泣かれて嫌々保証人になった夫には
代位弁済という枷が科せられ、家計をやりくりして返済金に廻さねばならなかった私には姑
へも義弟一家へもしこりは残った。
しかし義弟一家があのままだったら全員が不幸の連鎖に陥っていただろう。不幸な影の感じ
られない甥と姪の若いカップルに出会って離婚という選択はより良い選択だったと、今は思
えるようになった。

数回前のブログで天火明命が出雲の大国主命や宗像三女神と系譜的に繋がりのあることを示
したが、日本書紀・祟神天皇60年条によると、出雲振根の弟である飯入根は兄が筑紫に行
っている間に、出雲大神宮に蔵めてある神宝を無断で朝廷に献った。これを知った兄は弟を
誘い出し、弟の真刀を木刀にすり替えて弟を打ち殺してしまう。古事記では景行天皇条に
「倭建命と出雲建討伐」と題して出雲建を討ちとる話が載っているが、神宝の献上はすでに
邇芸速日命(天火明命)が神武天皇へ天津瑞(あまつしるし)を献じて仕え奉ったことが古
事記に記され、旧事記・天孫本紀にも宇摩志麻治命(火明命の次子)が天壐瑞宝十種を天孫
に奉献して帰順した話が載る。
宇摩志麻治命には天香語山命という兄がいるので先の説話との共通性から兄弟の戦いを想定
し、また尾張は憶良の残した<秋の七草>の暗号の尾花の地であり、天香語山の子孫である
尾張氏の地でもあることから尾張地方に戦いの跡が残されていないか検索してみた。

まず目にしたのは山岸良二氏の「尾張百年戦争」説である。
 この説の発想の元となったのは愛知県の朝日遺跡である。
 
朝日遺跡は愛知県清洲町を中心に広がる弥生時代全期にわたる約八十万平方メートルの大集
落遺跡であるが、集落の周りには環濠とよばれる濠や土塁がめぐらされている。これは外敵
から集落を守るために築かれた弥生時代独特の形態で環濠集落とよばれている。
1986年弥生中期(前1世紀)の集落を囲む大きな環濠の溝から逆茂木(さかもぎ)が突
き刺さった状態で何十メートルにもわたってみつかった。
逆茂木は竹や木の枝を鹿の角のように鋭くとがらせて、地面に逆さまに突き刺したもので外
部からの侵入を防ぐものである。逆茂木も環濠も縄文時代のムラには無かったものであり、
逆茂木は弥生時代の遺跡としては朝日遺跡以外にはない。

山岸良二氏の「尾張百年戦争」説は、山岸良二、松尾光共著『争乱の古代史』(2011年、新
人物往来社)にも記載されるが、隈元浩彦著『私たちはどこから来たのか・日本人を科学す
る』(1988年、毎日新聞社)から引用して紹介したい。

以下の「・・」は隈元氏が山岸氏から聞きとったものである。

「縄文の晩期から弥生時代の幕開けにかけて渡来してきた第一波集団は、九州から瀬戸内海
にまで広がっています。石で作った石器には石斧、石包丁などいろいろな種類があり、スプ
ーン、ナイフ、フォークといったように、地域ごとにいろいろな組み合わせで使われている
んです。で、この範囲の遺跡からみつかる石器はそのタイプだけではなく形状もほとんど同
じなのです。しかも朝鮮半島のものと酷似している。そういう目で弥生前期の第二波集団の
動きを観察しますと、尾張台地で止まってしまっている。この地で最大の遺跡は朝日遺跡
で、環濠、逆茂木で何重にも守られている。渡来系の集団にとって、重防御施設を作らなく
てはならないほどのアクシデントがあったのは間違いない。その原因は縄文系の人たちの激
しい抵抗だったと考えるわけです」

と述べ、朝日遺跡の戦いは縄文系と弥生系の戦いを想定している。
しかし山岸説への疑問や反論もある。

遺跡の調査を担当した清洲貝殻山貝塚資料館学芸員の野口哲也氏、大矢頭氏は「朝日遺跡は
大きく北居住区と南居住区に分かれます。両居住区は百メートル以上離れており、逆茂木な
どの防御施設は北居住区を守るように配置されています。たぶん何か起きれば、北居住区に
逃げこむようになっていたと考えられています。逆茂木の施設ができるのは弥生時代中期後
半(二千年前)のことで大戦争があったとする時期よりも随分と後のことです。確かに異常
な緊張感をうかがわせる遺跡ですが、単純な弥生の集落間の対立だったと推定されています。」

縄文時代における大陸との交流を具体的に立証するなど、先駆的な研究を進める名古屋大学
教授(考古学)談
「大戦があったということを、どうして証明できるのですかね。人骨はでていますが、首が
ない人骨とか、槍が刺さった形跡のある人骨は出ていません。想像としては面白いが、実証
となると話は別です。そもそも問題なのは、逆茂木は全部発掘されたわけではないんです。
それなのに、最初から南北の集落が一つの遺跡であることを前提に考えようとしている。お
かしいですよ」

朝日遺跡は大変興味深い遺跡ではあるけれど、尾張百年戦争を証明できるほどの考古学資料
は発見されていない上に、現在は東名阪高速道が通っており、残る九割の遺跡の発掘計画も
ないらしく残念ではある。
しかし渡来人の第一波集団は九州から瀬戸内海までひろがり、彼らの用いた石器の組み合わ
せや形状が朝鮮半島のものと酷似しているとか、弥生前期の第二波集団は尾張台地で止まっ
ているという記述を読み、七草の暗号の「尾花」の解である茅(伽耶)から渡来した人びと
によって建国されたと思われる吉備地方と尾張地方とふたつの地域が稲作の進出とぴったり
あてはまることに感慨を覚えた。

次回は朝日遺跡の逆茂木を水害対策ととらえる説を紹介します。













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