ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

古代からの暗号 積年の恨みを果たしたか?星川建彦。

2023-08-28 13:20:23 | 日本文化・文学・歴史

令和5年、日本列島は南から北まで酷暑の夏。摂氏35度から40度近くまでの数字の並ぶ天気予報図が
連日のように続いていました。ようやく今朝は少し気温も下がったのでブログの更新をする気持ちにな
りました。
 2009年8月にスタートした当ブログは約340回ほど更新し、15年目に入りました。もう少し頭の体操を
続けたいと思いますが、思いつくままにテーマを決めブログの更新を続けて来ましたので、雑多な情報
が集積されており、バラバラに見えるものが実は繋がっているかも知れないと思う事があります。

最近は仁徳天皇に関わるテーマが続いていますが、sabo氏のブログ情報では菟道稚郎子は<星川建彦の乱>
で命を落したのですが、彼の死によって皇位についたのは仁徳天皇でした。星川建彦の反乱によって仁徳
天皇(私の推量では許勢小柄)が何故皇位につけたのか?許勢小柄と星川建彦の二人の関係をあきらかに
したいと思いました。

彼らの正体は当ブログ2023年3月27日<雀と名がつけられた仁徳天皇>によって建内宿禰の後裔氏族の中に
<許勢>氏<星川>氏がおり、同族である事が分かりました。

またく6月24日<仁徳天皇=許勢(巨勢)氏の証明なるか?sabo氏のブログ>中で引用した『続日本紀』
天宝勝宝3年2月26日の記事でも同族としています。

『紀氏家諜』による系図では
  建彦宿禰ー巨勢川辺宿禰(亦曰、軽部宿禰)ー巨勢川上宿禰ー巨勢男人宿禰 とあり
  この系譜だと世代的に「巨勢小柄=建彦宿禰」ということで同一人になりそうとの説もある。

星川建彦は何故に菟道稚郎子を殺したか?その動機を知る上で巨勢氏と星川氏が同族である事が大変重要
なのです。

 『日本書紀の巻3』には神武天皇が日向を出発して橿原宮に即位するまでの経緯が記されていますが、
神武天皇即位前紀己未年春3月条に巨勢祝の名前がありました。(要約)
「層富県の波多丘岬に新城戸畔という者
 和珥の坂下に巨勢祝(はふり。神に仕える人)という者
 臍見の長柄丘岬に猪祝という者
 は皆、土蜘蛛であるが武勇が優れており、(神武)に帰順して来ない。
 兵を差し向けて皆誅(ころ)しにした。」
と記されています。この文中で<巨勢祝>とは<巨勢氏の祖>と思われますが、土蜘蛛とされ、大和朝廷に
従わない先住民、つまり国つ神であり、その居住地は<和珥の地>でした。そして神武らの天つ神に敗れて
誅されてしまいました。
この時の将軍たちの名前は不明ですが、10代崇神天皇の時代に孝元天皇の皇子である武埴安命と阿田媛が謀反
を起こし京に向かってきました。崇神天皇の命令により大彦と和珥臣の遠祖、彦国葺(ひこくにぶく)が山背
につかわされ武埴安命と戦いました。最後の決戦は山背の輪韓河の両岸に陣どり弓を射掛ましたが、彦国葺の
矢が武埴安の胸を射抜き河に落ちて亡くなります。
彦国葺が和珥臣の遠祖という事はさらに昔、巨勢祝を誅した将の子孫であったと思われ、嘗ては巨勢祝の居住
地<和珥>を奪ったうえに、その地名の<和珥>を自分の姓にとりこんでいたのです。
 
 菟道稚郎子は応神天皇の皇太子となりますが、母は宮主宅媛。祖父は和珥の日触使主でした。星川建彦にと
って先祖の命と土地を武力で奪われ、さらに居住地の<和珥>さえ奪い氏の名前にしている事を苦々しく思って
いたはずです。<星川建彦の反乱>には<和珥氏への深い恨み>が一因であったと思います。

記紀の編者たちは正直には明かせない歴史をたくさん抱えながらも、深く読み込めば真相に辿り着けるように
細工してあるかもしれませんね。   草野俊子




 

 

 

 

 

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