ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

古代からの暗号 亀石伝説・鯰と蛇の戦いの謎を解く

2020-09-28 21:10:05 | 日本文化・文学・歴史

九州には鯰を神使として祀る神社が存在し、その氏子たちは鯰を決して食べない謎の民であると知り
ましたが、彼らのルーツと思われる記述が『漢書』地理志呉地条に伝えられています。
「会稽海外に東鯷人あり。分かちて二十余国と為し、歳事をもって来りて献見すと云ふ」
鯷(てい)とは大きな鯰の意味である。
東鯷人が呉の国から日本列島に渡来したという確証はないが、636年に完成した『梁書』(巻54)列伝・
諸夷・倭の条に「倭は自ら太白の後(すえ)という。俗は皆文身(入れ墨)す。」と記されており、太白
の子孫と称する列島住民は東鯷人の可能性は高いのです。

太白の素姓(鳥越憲三郎著『中国正史・倭人倭国伝全釈』より)
 父は古公亶父(ここうたんぽ)といい黄河の支流の渭水流域で一地方の王となり国を周と称した。太白
はその長子だが父王が後継は末子の季歴にと考えていると知り、太白と弟の仲雍(ちゅうよう)は身の危
険を感じて荊蛮の地に逃れる。荊州の蛮族の地とは太湖北岸の現在の無錫市の近くでそこに住み着いたという。
そこは分身・断髪の習俗をもつ倭族の地で太白兄弟は倭族と同じように分身断髪し身を隠した。
住民はその義に感じて千余家が彼らに味方し「立ちて呉太白となる。」と『史記』は記すが、呉の国が
成立するのは500年も経た後(紀元前585年)で第19代寿夢(じゅぼう)が王を名乗って即位する。その後
超大国の楚と度々攻防があり、また越王句践との戦いで闔閭(こうりょ)王は戦死。子の呉王夫差と越王句践
と対決するが春秋時代の終末(紀元前473年)に敗れて呉は滅亡する。
この呉の滅亡とともに呉の領域とされていた山東省・江蘇省・安徽省の倭族たちが朝鮮半島中南部へ亡命し
その一部が日本列島に渡来して「自ら呉太白の後なり」と伝えていたのです。

 今から2500年から2000年前の自らのルーツの伝承を守り続け、鯰を祀る人々の日本列島でのその後の歴史
は全く闇の中ですが、鯰の伝承中で暗号的と思ったのは鯰と蛇が戦ったという「飛鳥の亀石の伝説」でした.
「奈良盆地一帯が湖であった頃、対岸の当麻の蛇と川原の鯰の争いの結果前者が勝ち、水を吸い取られた湖
底は干上がってしまい湖の亀はみな死んでしまった。これを哀れに思った村人たちは亀石を造って供養した
という。亀石は最初北を向いていたが、次に東を向いたという。そして現在は南西を向いているが、当麻の
西に向いた時、奈良盆地は一円泥の海に化すと伝えられている。」

飛鳥に現存する亀石にまつわる伝承ですが、話の本筋は「昔、鯰をトーテムとする民族と蛇をトーテムと
する民族が戦って蛇側が勝利した。この戦いで亀にまつわる人々にもたくさんの犠牲者がでた。そこで亀石
を造って供養している。」で、この戦いの当事者の<当麻の蛇>と<川原の鯰>を特定しようと飛鳥の地図
を広げてみました。すると当麻は大和の葛下郡当麻があり、この地は饒速日と共に天下った物部氏族の一員
である<当麻物部>の居住区域であった。この一族の地は肥後(熊本)の益城郡当麻郷にもあり九州と大和
に分布していました。一方の川原地名は全国至る所に存在していると思われるが、飛鳥に限ってみれば川原
宮がありこれは斉明天皇(皇極天皇が重祚)が営んだ宮室名。655年飛鳥板蓋宮(いたぶきみや)で重祚した
斉明天皇は小墾田に瓦葺きの宮殿を作ろうとして成らず板蓋宮も火災にあったので飛鳥川原宮に遷ったが
翌年、後(のちの)岡本宮を設けてそこに遷った。現存する橘宮の周辺に板蓋宮、島宮、川原宮の伝承地が
あるが、斉明天皇の晩年は百済救援のため九州の筑紫に赴き朝倉橘広庭宮に遷ります。が、この宮造営の際に
『日本書紀』は奇怪な出来事を記しています。
「斉明天皇が朝倉宮をつくるために朝倉社(麻氐良布神社)の木を切り払ってこの宮を造る故に神は怒りて
殿を壊す。宮内に鬼火が現れ、大舎人や近習たちが病気になり亡くなる人も多い。661年5月に朝倉宮に遷
りしも束の間、8月に斉明天皇は朝倉宮で崩御された。」
 この一連の奇怪な事件の頃に時の人は「大倭の天の報(むくい)近きかな」と噂しあったらしく、筑紫の
人々にとっては天罰が降される事をねがうほどの痛みを抱えていたと思われます。

 <川原の鯰>のフレーズに出会った時にひらめいたのは2020年1月20日の当ブログ「高羅(訶和良)で繋
がる二つの反乱伝承」中で江戸時代の神官で国学者・鈴鹿連胤の著作『神社覈録(じんじゃかくろく)』の
記述の「高良は加波良(かわら)と訓むべし」の文言でした。つまり久留米の高良大社の本宮は香春の阿蘇
隈の古宮八幡宮であり祭神は豊比売命、故に<カワラ>と訓むべしと主張しているのだと思いました。ただし
高良大社の神幸祭には「おまがり様」と称される「龍頭のしとぎ餅」を奉納するのが習いであり、杉の葉神輿
といい、龍蛇族と称する出雲系の祭祀であって<川原の鯰>とするには矛盾している。
しかし、高良大社の祭神・玉垂神の名義とは潮干珠・潮満珠のふたつの玉にまつわるもので、古くは八代海
の海神である蒲池比売が潮干珠・潮満珠を用いて潮の満ち引きを司っていたといわれて、蒲池比売の本地は
火(肥)の宇土、郡浦(こうのうら)とされ、高良は郡浦の転化との説もあり高良玉垂神の原像には蒲池比売
の神霊が重なっています。前回のブログで鯰を祀る神社として肥後の蒲池比売系と肥前の與止日売(淀姫)系
を紹介しましたが、筑紫の国魂ともされる高良玉垂命ですから九州の国つ神を包含しているのかもしれません。
<川原の鯰>とは高良玉垂命を指していると思います。

ところで倭国の九州説を主張している古田史学会の古賀達也氏は「4世紀から6世紀にかけて九州王朝の都が
筑後地方の三瀦(久留米市)にあり、筑後国一宮の高良大社祭神・玉垂命こそその時代の歴代倭王であった。」
と主張しておられる。
私は飛鳥の亀石の伝説の<当麻の蛇>を物部氏<川原の鯰>を高良玉垂命と推定しましたが、この両者の戦い
があり、物部氏が勝利した事件がはたしてあったでしょうか?古代史好きの方なら真っ先に思いつくのは6世
紀初頭に北九州でおきた「磐井の乱」でしょう。

「磐井の乱」は527年に筑紫国造磐井が起こした反乱で大和政権と戦ったが、大和側の総大将が物部大連麁鹿火
でした。『日本書紀』継体21年条から当時の背景と戦いの様子を簡略に紹介します。
 近江の毛野が兵6万を率いて任那に行き、新羅に破られた南加羅・喙己呑(とくことん)を任那に合わせよう
とした。この時筑紫国造磐井がひそかに反逆を企んだが、新羅がこれを知り、こっそり磐井に賄賂を贈り毛野軍
を妨害するように勧めた。そこで磐井は肥前・肥後・豊前・豊後などを抑えて職務をはたせぬよう海路を遮断
して、高麗、百済、新羅、任那などが朝貢する船を欺き奪い、うちでは任那に遣わされた毛野臣軍を遮った為
前進できずに停滞してしまった。そのため天皇は物部大連麁鹿火に「長門より東は自分が治めよう、筑紫より
西は汝がかとれ。」と筑紫より西の統師権を授けた。
翌、継体2年条には大将軍物部麁鹿火は磐井と筑紫の三野郡で交戦し、どちらも相譲らぬ戦いだったが、遂に
麁鹿火は磐井を斬り反乱を鎮圧した。息子である筑紫君葛子は父の罪に連座して殺される事を恐れて糟屋(かす
や)の屯倉を献上して死罪を免れたと記す。

 <当麻の蛇ー物部麁鹿火>と<川原の鯰ー高良玉垂命>の戦いとは筑紫でおきた<磐井の乱>を指していると
確信しましたが、亀石がどう関わるか分からずあきらめかけていましたが、磐井の墓には石人・石馬がある事
を思い出しネットで「磐井の墓」を検索してみたところブログ『やぶ睨み社会事典fyom以久遠氏』中の<八女、
筑紫の君「磐井の墓」-邪馬台国考 7>に私の探している<亀>はこれだ!と思う記述がありました。
「磐井の墓は高良大社のある久留米市から南に10㎞ほどの八女市長峰にある前方後円墳の岩戸山古墳である、
磐井が生前に作らせた墓所で筑後国風土記逸文には「上妻の県、県の南二里に、筑紫君磐井の墓墳あり。高さ
7丈、周り60丈なり。墓田は南と北と各60丈、東と西と各40丈なり。石人と石盾と各60枚。交陣なり行を成して
4面に周匝れりなり。東北の角に当たりて一つの別区あり。号けて衙頭(がとう)と云ふ。衙頭は役所なり。其の
中に一の石人あり。従容に地に立てり。号けて解部と云ふ。まえに一人あり。裸形にして地に伏せり。号けて偸
人と云ふ。生けりし時猪をぬすみき。因りて罪を決められむとす。側に石猪4頭あり。臓物と号く。臓物は盗み
し物なり。彼の処に亦石馬3疋・石戸の間・石藏2間あり。-生平けりし時預の此の墓を造りき。」と記されて
いた。1956年古墳を発掘すると風土記の内容と一致しており<磐井の墓>と確定された。

ところがそれ以前には八女市の数キロ西で八女丘陵の西端にあたる筑後市広川町人形原(ひとがたばる)にある
前方後円墳の石人山古墳が磐井の墓と言われていたと言う。以久遠氏は中学生の時見に行っており、石人山古墳
の棺は石造りの亀棺であったと言うのです。石人山古墳の主は磐井一族の誰彼と名はあがるが確実に誰とは比定
されていないらしい。この謎解きの最重要人物であろうと思われるのに残念です。

戦時中、岩戸山古墳の西の台地に岡山飛行場が建設されており、そこは<亀の甲>という地名で「亀の甲土器」
という素焼きの土器が発見されているところであった。恐らくここが磐井の息子の墓だったのではという説も
あるらしいが、遺跡が破壊されており調べようがないらしい。
<亀の甲>という地名は縄文末期から弥生初期の遺跡があると目される場所であるらしい。熊本県玉名市にも
「亀甲」という地名があり、八女の南の山鹿市には「亀の甲」池と「犬塚」という地名もあるという。「亀甲」
とは縄文人の暮らしの場であった所であり、6世紀にも縄文系の末裔たちは住んでいたと思われ磐井の乱に巻き
込まれて犠牲になった人々も多かったと思われます。磐井の墓には石人、石馬のモニュメントを残した人々が
<磐井の乱>の真実を後世に伝えようとして飛鳥に<亀石伝説>と<亀石>を残したと思います。

ブログ『やぶ睨み社会事典fyom以久遠氏』の著者の方には<石人山古墳>や<亀の甲>など重要な情報を提供
して下さり有難うございました。上記のブログを皆さまもぜひ訪問してみてください。   草野俊子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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