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ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

古代からの暗号 玖珠と繋がるキーワード<葛城襲津彦>

2021-10-28 09:36:20 | 日本文化・文学・歴史

 九州の古社に楠(くすのき)、大分に古代郷・玖珠が有る事から、秋の七草の暗号の<葛>と推定した<国栖>の
根源は九州かもしれないと思いましたが、国栖の本質は何か?分かる伝承を求めて<多久須魂神社>のある対馬に
<くず>の付く地名を永留久恵著『古代史の鍵・対馬』によって探したところ久須とつく地名が3ヶ所見つかりました。
  *上対馬町 浜久須 (古墳時代中期の古墳と箱式石棺のある朝日山古墳が有名)
  *美津島町 久須保 (石棺群があった。)
  *鶏知にある久須浜遺跡 (石棺群のある遺跡が数ヶ所ある。)
これらの地区はいずれも弥生時代から古墳時代にかけて葬られた人々の石棺群の遺跡が存在しています。

特に舟志湾(しゅうしわん)の一番奥にある<浜久須>地区の<朝日山遺跡>は有名で、隣接して<霹靂神社(へき
れき神社)>があります。この遺跡は石棺のおかれた石室墓が群集しており、出土物によると古墳文化の中期(4〜
7世紀)頃とみられており昭和23年の発掘で出土したものは、漢式鏡一面、まが玉、鉄製剣、刀、斧、祝部土器では最も
古い形式の須恵器などで、新羅系陶質土器は5世紀後半頃と考えられています。

この遺跡のある<浜久須>は平安時代に作られた『倭名類聚鈔』に見られる「久須郷」のあった場所で、久須郷は中世
以降の対馬で二郡八郷体制が確立される前に存在していた古代郷の一つという。

 対馬教育委員会つしま図書館情報「地区名、由来、語源」によると<久須>とは
  ① 対馬で古来、神霊の宿る場所の近くに民家がある場所を「久須」と呼んでいたことに由来する。
  ② 雷大臣命が新羅から戻る際にこの地に寄港し、「権現社」を建てその付近を「久須」と名付けた。
と二説あり②の雷大臣とは霹靂神社の祭神の一柱で卜部の祖神・中臣烏賊津使主と同一人物と思われ天児屋根命の裔。

霹靂神社の「霹靂」とは「青天の霹靂」の如く<晴れた日に突然鳴り渡る雷>をさすが、思いがけない事変や打撃の意
にも用いる言葉です。昔は「熊野権現」が船にのって渡って来たと伝承されていたらしい。
思うに、対馬には弥生時代から古墳時代にかけて楠を神宿る木として祀る人々がおり、彼ら自身も<くす>の民と称して
いたが、青天の霹靂の如き事態がおこり(天神族の渡来→国譲り?)彼らは小集団ごとに出雲の熊野へ、九州の玖珠へ、
紀州の熊野など列島各地へ移住したと思われます。
記紀によると「熊野権現」とは神仏習合した呼称で神代に天照大御神と須佐之男命ニ神の誓約によって生み出された神
であるが、出雲の熊野大社の祭神は熊野豫樟日(くすび)命(書紀)または熊野久須毘命(記)と記されており、この
神名はあきらかに<楠>を含んでいます。
出雲大社のある島根県では熊野大社の方が上位の神格であることを『亀太夫の神事』によって知らしめています。

紀州の熊野にも熊野速玉大社(速玉大神)熊野本宮大社(家津御子大神)熊野那智大社(夫須美大神)の熊野三山神社が
鎮座するが出雲の熊野大社の祭神名とは異なっています。神社側の伝承として速玉大神は伊弉諾神、夫須美大神は伊邪那
美神、家津御子は須佐之男命とされ、記紀で日本列島の国生みをしたとされる出雲系の神々になぞらえられています。

 九州には楠を神木とする著名な神社は各地にあるが『豊後国風土記』で球珠郡とされる大分県玖珠郡には熊野と称する
著名な神社見つからない。が、国東(くにさき)半島東部には武蔵,安岐、杵築、八坂川、熊野、権現鼻、大神、熊野磨
崖仏、臼杵湾の臼杵(うすき)付近には楠屋、楠屋鼻などここは出雲かと錯覚しそうな興味深い地名が見られます。
国譲り神話の葦原中国は対馬を指すのか、佐賀の神崎の吉野ヶ里か、筑紫平野か真相は分からないが、大国主の妃の多紀
理毘売(宗像三女神)らの姫島降臨伝承を考慮すれば国東地方方面を候補にしてもおかしくはないと思われます。

 私は暗号歌「秋の七草」中で三番目の<葛の花>を吉野の特産物<葛粉>の「葛」から同音異義語の<吉野の国栖>を
想定しました。さらに吉野から飛鳥にかけては古代の豪族である葛城氏の本拠地でもあることから<国栖=葛城氏>と比定
したのです。この推理が九州に当てはまれば<楠=玖須=国栖=葛城氏>の図式が成り立つと思われ、この大分地方に葛城
氏との絆の有無を探すことにしました。

国栖の初出は古事記、日本書紀共に神武東遷の途次、吉野の土着民として登場しますが、次は神武天皇から15代経た応神
天皇条に「国栖の歌」が記されており、服属した国栖たちが天皇に食物を献上する時に歌笛を奏したことから国栖奏として
天皇の即位儀に伴う大嘗祭に取り込まれています。

記紀に葛城氏が登場するのは応神天皇16年8月条に加羅の遣わされた葛城襲津彦が帰ってこないので、平群木菟宿禰らを加羅
に遣わして呼び戻そうとする話があります.。応神天皇11年条には日向の諸県君牛の娘・髪長媛が天皇の元に貢上されてくるが
大鷦鷯尊の皇子が一目で恋心を抱いた様子を察した天皇から媛を賜り大層喜ぶ話があり、太子だった大鷦鷯皇子がが即位(仁
徳天皇)する。仁徳天皇の皇后となったのが葛城襲津彦の娘の磐之媛でした。
このように葛城襲津彦が唐突に天皇家の外戚になれたのはナゼでしょうか?

この疑問の答えを見つけることができたのは28年も前に出版されていたNHKブックス『古代日向の国』(著者・日高正春。1993
年4月発行。)でした。日高正春氏は宮崎考古学会会長も務められた考古学者であり、西都原古墳研究所所長の経歴を持つ方です。
1992年〜2009年9月13日。残念ながら永眠されていました。

 『古代日向の国』
   「第Ⅳ章 古代氏族と日向王国」
      4,応神王朝における日向系皇統・・・・・葛城系皇統と磐之媛 から抜粋
「仁徳天皇の皇后である磐之媛の皇統について考察してみたい。
 磐之媛の父君は葛城襲津彦であるが、第一章第二節でも論究したように、この襲津彦は日向の北西部一帯を根拠にして九州
 中央山地に勢力を扶植した「ソの国」の首長であったと思われる。井上光貞氏も記されているように葛城襲津彦が忽然と古
 代の世界に出現してきたことも、一層九州出自の人物であることを裏づけるものである。おそらく景行天皇の九州征討、即
 ち大和王国の「ソの国」統合に際し、日向地方においては、豊国別王による「ソの国」の統括があった。
 一方襲津彦は、日向地方と古くから関係があったと推測される。大和葛城地方に本拠を定めて<葛城襲津彦>と称したのでは
 ないかと考えられる。その年代は4世紀の後半代であったと推測される。」

日高氏は「ソの国」の「襲」についても述べています。

「襲」の意味 (要約)

『書紀』の本文と一書の第四、第六には天孫降臨の地として「日向の襲の高知穂」とある。書記編纂当時、神代伝承を記述する
にあたり<襲>という地域に降臨したという伝承を伝聞していたと思われる。『新撰姓氏録』の序に「蓋し聞く、天孫、襲に
降り、西化の時」と記されていた。「ソ」とは「背」「そびら」と書かれ背中を意味する。

 文献に見える「ソ」

*「襲の高知穂」(書記)「阿蘇国」(景行天皇紀・北史倭国伝・隋書倭国伝)「肥後国阿蘇郡阿蘇」(倭名鈔)「大隅国贈於
  郡曽之峯(続日本紀)などがある。
* 霧島山周辺が古く「ソ」と呼称されていた事が神楽歌に見える。霧島山山麓の霧島東神社に伝わる「祓川神楽」の中で「壱
  番舞」という神楽の神歌に「霧島の峯より奥の霧はれて、現れ出る其(そ)の峯の守(かみ)」がある。
*「ソ」のつく地名がある地域。
 ①日向の北西部の高千穂一帯から阿蘇山周辺と②大隅国北東部霧島山周辺一帯。②は現在も「ソ」の付く地名が多く
 残っている。①は山の名称を除き古文献にわずかに散見できるのみという。

今回のブログでは楠→玖珠→国栖→葛城氏の図式を成立させることを目指していましたが、大分の玖珠と葛城襲津彦を
結びつけられる要素が見つからず悩んでいました。日高氏の<襲の国の首長>を表わすネーミングとする説は<目から鱗>
でした。そう理解する事によって私の図式も成立すると思いました。大分の玖珠郡が阿蘇神社の元宮という国造神社のある
阿蘇山の北方地域に隣接していた事も納得しました。
国栖と熊野の繋がりも興味深いし、まだまだ謎解きは続けられそうです。

     












 

 

 

 

 

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