ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

尉仇台の子孫から倭王へのルートは? ⑩ 山幸(朝廷)対海幸(蝦夷)の戦いに決着つけた9世紀

2019-07-30 12:49:27 | 日本文化・文学・歴史
ようやく梅雨明け宣言は出ましたが今朝もパラパラ小雨模様でした。

前回までのブログでは6世紀、百済へ伽耶の4県や己汶帯沙を与える見返りに上毛野国に伴跛国の民を連れ帰り東国の未開地
開拓や古墳造営に当たらせたのではと推量しました。群馬県の前方後円墳から出土した埴輪の人物は騎馬系民族の胡服を着て
おり彼らは高句麗民族と目星を付けましたが、帆立貝式古墳から出土した人物埴輪は襷を掛け顔には入墨または化粧を施して
おり、墓の形式も習俗も違う別系統の民族の存在を想定しました。
 彼らが何者かネット検索してみると

①蛇の紋様を襷につけ、頬に赤色の化粧を施した台湾原住民のパイワン族の花嫁姿に共通していると感じました。
②ウイキペディア隼人の項に紹介されていた谷垣美帆、宮代栄一両氏の論文「宮崎県島内地下式横穴墓から出土した人骨」に
 赤色の顔料が塗布されており、その部位を調べた結果顔面のみ赤色の顔料の塗布されたものが127体中38例あり隼人はパイ
 ワン族と同系の民族の可能性があると思いました。
③群馬の帆立貝式古墳から出土した赤色化粧(入墨?)を施した埴輪は隼人の習俗と共通していたが、推古紀35年条に暗号
 的な文がありそれは大伽耶の伴跛国から大勢の民が上毛野国に渡来して散っていったと解釈しました。その理由は<蠅=伴跛
 =南風(ハヘ)=波邪(ハヤ)=隼人>とこれまでの暗号解読の手法(同音異義語)を踏襲していたからです。
④上毛野国に渡来した集団が隼人系(アタ族)であることは文献的にもそのつながりを裏付ける記録がありました。
 『南斉書』東南夷伝加羅国条によると479年に加羅国王荷知なる者が中国南朝の南斉に遣使し、輔国将軍本国王の官爵を与
 えられたことが記されているが、この「加羅国」は北部伽耶地域の高霊(大伽耶)であり、国王荷知は伽耶国の嘉悉王(かし
 つおう)と同じ人物であるという。『新撰姓氏録』に嘉悉王の子孫名が確認できるが、『日本書紀』神代下第九段で瓊瓊杵尊
 が天下った日向の笠沙で出会い一夜を共にする姫の名が「木花開耶姫」別名「加葦津姫(かしつひめ)」。アタの姫と伴跛国
 王に共通の「かしつ」が何を指すかは不明です。この姫との一夜の交わりから三貴子<火蘭降命(ほすそり・隼人らの祖)>
 <彦火火出見尊(ひこほほでみ・大和朝廷の祖)><火明命(ほあかり・尾張連等の祖)>が誕生します。アタの女性が列島
 住民の始祖と認識されていた事は重要で、伽耶地域にも同族がいて王がいればそちらが本国でしょうか?

群馬出土の騎馬系埴輪は前方後方墳や全方後円墳を築き、おびただしい数の小古墳も残した上毛野一族の出自を物語る自己主張
と思われますが、その中心勢力は天武天皇によって朝臣の姓を賜った東国六腹朝臣です。六腹とは元々「陸奥腹」ではないかと
推量しました。その理由は488年に完成した『宗書』の「夷国伝」の倭王武(雄略天皇)の上表文(478年)中に「昔より祖みず
から甲冑をまといて、山川を跋渉し、寧らかにおるにいとまあらず、東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること
六十六国、渡て海北を平ぐること・・・・・・」と東の毛人国を征したといい『旧唐書』(10世紀後半成立)には「東界、北界
に大山ありて限りを為し、山外は即ち毛人の国なり」と記し、『新唐書』では670年に日本から使者が来たことを記したあとに
長安元年(701年)以前のこととし毛人のことにふれています。
中国の史書が東北の住民を毛人や毛人国と表記しているにもかかわらず、日本の史書では僅かに敏達天皇紀の「魁師とは大毛人
(おおえびす)なり」という注記のみらしい。魁師(ひとこのがみ)とは敏達天皇治世10年目(581年)に数千の蝦夷が辺境を
侵したので天皇は蝦夷の首長である綾糟を召して𠮟責したという。

毛野とは毛人の居住地を表していると思われますが、崇神天皇の長子の豊城命を上毛野氏の始祖とする系譜を、創作した結果
毛人、毛人国とは書けなかったものと思われます。私は彼らを推古天皇35年条の「むじな(貉系民族)」と推量しています。
欽明天皇の治世9年(637年)条によると蝦夷が叛して朝貢しなかったので天皇は大仁上毛野形名を将軍に任命し征討を命じら
れ戦うも敗退し、さる砦に逃げ込むが包囲され、なすすべを知らずひそかに逃げ出そうとします。その情けない姿の夫に対し
形名の妻は「貴方のご先祖は海を渡り朝鮮半島で武威を誇ったではありませんか。今貴方がここでくじけては必ず後世の笑い者
になってしまいます」と叱咤し、夫に酒を飲ませて元気付け、自分も夫の剣を身に帯び10の弓を張り数十人の召使女に命じて
弦を鳴らさせ、形名は陣容を立て直して勝利したという。
この逸話からさる砦とは妻や下女もいる形名の本拠地と思われ、上毛野に住む前には蝦夷地に居宅があったと思われます。

この後、朝廷側は柵を築きじわじわと陸奥に侵攻していきますのでその経過を表にしました。数字は西暦年です。

しかし蝦夷や隼人と友好的な関係であった時期もありました。
斉明天皇の頃には蝦夷が編戸の民になりたいという申請が相次ぎ許可されたり、715年には東国の住人が陸奥国へ移住させられ
出身地にちなむ郷名が名付けられています。

天武天皇の崩御には隼人が葬儀に出席し誅を宣べ、後に蝦夷が弔問に訪れたとも記されています。元明天皇の和銅3年(710年)
の新年の朝賀を受ける集まりに南九州の隼人、東北の蝦夷も加わり都のメインストリートの朱雀大路の両側にずらりと騎兵を並
ばせ左将軍大伴旅人、右将軍佐伯石湯らは隼人と蝦夷たちを引き連れて行進したという。霊亀2年(715年)の元旦の時は軍楽隊
の鼓吹騎兵が内裏への入口、朱雀門の左右に並び鼓を鳴らし笛を吹くという今までにない趣向を凝らされ元旦の朝は一段と華やぎ
ました。この時は陸奥国と三年前に越後国出羽郡が昇格してなった出羽国の蝦夷や、屋久島、奄美大島など南西諸島の人々もはる
ばる来朝しおのおの方物(その地の物産)を貢上したという。

しかし蜜月と思われる時期は長くは続かなかった。
そのきっかけとなったのが720年(元正天皇)大伴旅人将軍により隼人が討ち取られた事であったろう。陸奥に不穏な動きがあっ
たのか722年には「夷へ賜う禄」が支給されたらしいが、724年海道の蝦夷が官軍の佐伯児屋麻呂を殺害する。官軍は蝦夷を王民
あつかいする一方官人、新たな軍団や辺軍の編成をして軍備の強化を図っている。

辺軍とは俘軍と呼ばれる俘囚や夷俘からなる軍であろうという。
俘囚や夷俘という用語は8世紀以降に多く使われているが、誰を指すのか明確な基準は不明であるという。
漢字の字義から考えると俘囚は囚われた人、捕虜の意味ですが記録に残る俘囚○○と記載された用例には4系統あり

 ①「吉弥候部(又吉弥候)+名」→ 毛野氏
 ②「大伴部(又伴部)+ 名」→ 大伴氏と関わり深い。陸奥に多い俘囚。
 ③「道公 + 名」→ 道氏、出羽俘囚。『新撰姓氏録』に載る嘉悉王の子孫の名は道田連なので、関係あるか?
 ④「深江 + 名」

①の吉弥候部と表記される前は「君」の字が用いられています。日本書紀には「上毛野君・下毛野君」と表記されており、毛野氏
の蝦夷出自の根拠と言えましょう。
さらに伴跛国から渡来したと思われる民が百済の捕虜であったなら俘囚として扱われたと思われます。彼らが東国から官軍の一員
として陸奥へ送り込まれることも、渡来時に自発的に陸奥に向かうこともあり得たと思われるので、私が案じた「鵜(官軍の隼人)
と鵜(伴跛国系隼人)」の戦いが起こり得たと思います。

1918年12月29日のNHK「サイエンスZERO 日本人成立の謎。弥生人のDNA分析」で各地の弥生人のDNAを比べてみた結果、
岩手県の弥生人のDNAは縄文人のDNAと一致していたというのです。つまり弥生時代の岩手県の住民は縄文人の子孫だったのです。
1917年7月から10月にかけて「タミル人は来たか?縄文人の痕跡を探す」のテーマで大野晋博士の「日本語の起源はタミル語にある」
説の共通する痕跡を探した結果、私はこの説を支持しました。決定的な証拠は海人族の信仰する住吉大神の神像が真っ黒で「御黒男神
(おんくろうのかみ)」と呼ばれており、宇佐八幡神宮の放生会に登場する隼人(アタ族)とされる相撲人形も肌の黒いものだったのです。
放生会は滅ぼされた隼人の鎮魂のために「にな貝」を放流するのですが何故「にな貝」なのか不明でした。

8世紀の陸奥の蝦夷にアタ族もいたとしたら、蝦夷の反乱を別な視点で見直すことができるかもしれないと思いました。
724年と774年は共に海道の蝦夷の反乱がありました。海道の蝦夷とは牡鹿郡あたりから北部の海人系蝦夷たちと思われます。
彼らが九州のアタ族と繋がりがあれば720年に大伴旅人による隼人討伐は怒りと恨みを増大させたに違いありません
この事件が『日本後紀』に「三十八年戦争」(774年~811年)と命名された長い抗争のきっかけとなり、蝦夷敗北へ足を踏み入れ
て行きます。

戦争のあったのは4年~6年に一回の勘定であるが、表を見ると動員された兵の数が2万~10万とあり蝦夷の抵抗の烈しさと官軍
の征服したいという執念の激しいぶつかり合いだったと思われます。
表Ⅲの③の征討が有名な征夷大将軍・坂上田村麻呂によって胆沢城が平定され蝦夷の大将格であるがあった阿弖流為らが500人
あまりの同族を率いて降伏したのでした。
表Ⅲの①の「国家側の損害賠償蘭」に「裸身でかえるもの1257人」の記事も気になります。逃げ帰る際に敵と味方を識別するものが
裸身だとしたら蝦夷側には入れ墨があった可能性がありそうです。


2013年12月から翌年の3月まで「壬申の乱・天武天皇の味方1~7」を考察していますが、そのバックには宗像氏・安曇氏・尾張氏
・海部氏・犬養氏らの海人系氏族と孝元天皇の長子である大毘古の子孫たちの支えがあって勝利したのでした。壬申の乱(672年)は
天智天皇亡き後、後継者の大友皇子と大海人皇子の皇位継承を巡る争いとして語られてきましたが、実は日本列島の先住民(地祇・蝦
夷を含む)と弥生系渡来民(天つ神)の覇権争いではなかったかと思うのです。

壬申の乱は大海人皇子が勝利したのち、皇統は天武系に代わり持統天皇・文武天皇・元明天皇・元正天皇・聖武天皇・孝謙天皇・廃帝
淳仁天皇・称徳天皇(孝謙重祚)まで7代続きますが、次の光仁天皇から天智天皇の皇統に戻ります。光仁天皇の皇后は聖武天皇の皇女
(井上内親王)で皇太子の他戸は少年になっていました。ところが百済系の妃(高野新笠)の皇子・山部親王(後の桓武天皇)を皇太
子にと望む藤原氏の策略で井上皇后と他戸皇太子は廃され(773年10月)宇智郡の没官宅に幽閉されます。他戸親子は775年4月27日
同じ日に亡くなったと伝えられています。

この天武天皇の血をひく井上皇后と他戸皇太子が廃され、無念の死を遂げたことは地祇系の海人族にとって大きな衝撃だったと思われ
774年海道の蝦夷たちの反乱となり、これが発端となり38年戦争と呼ばれる<大和朝廷>対<蝦夷>の生存をかけた最後の戦いが始
まった可能性もあるのではないでしょうか?

現代の我々には蝦夷と呼ばれた人達の姿が、アイヌ民族に近いのか、住吉大神のような黒々とした肌であったのか全く分かりません。
「秋の七草」の暗号の始めは<萩の花>。私は遮光器土偶を信仰した<荒吐族>と考え、遮光器土偶(津軽の木造町で発見された)が
西域の四天王像とそっくりな着衣に見えたので吐蕃(チベット)民族を想定しました。古地図にはチベットも天竺と書かれている場合
があり、インドやチベットからはるばる東の果てにまでやって来た人々がいたけれど、残念ながらもういないと思っています。

放生会で滅ぼしてしまった隼人族の鎮魂にニナ貝を放流することは<二種類の蝦夷(カイ)=隼人と蝦夷>への手向けであったように
思います。



















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