ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

謎解き詠花鳥和歌 藤と雲雀(ひばり)ー31 小倉山と鹿⑯

2013-09-16 09:55:11 | 日本文化・文学・歴史
台風18号が接近中で空の雲がだんだん黒く垂れこめてきました。最近は短時間に猛烈な
雨が降るので街中まで水浸しになる光景をしばしば目にしますが、今テレビは京都の桂川
の水があふれだし高級住宅街を浸水していく様子を映しています。最近は世界中で自然災害
が増えているように思いますが、地球温暖化の影響かもしれません。真剣に取り組まなけれ
なりませんね。

 さて前回は「出雲国造神賀詞」(716年出雲臣果安奏上)で大和朝廷に服属を誓う出雲系の
神々(地祇)の社に千木が掲げられているかどうか調べてみましたが、今回は養老令の公定
注釈書とされる「令義解(りょうのぎげ)」(833年清原夏野等撰上・834年施行仁明天皇)
中の「神祇令・天神地祇の解釈」

 「天神(あまつかみ)とは伊勢、山代の鴨、住吉、出雲国造の斎く神等これなり。
  地祇(くにつかみ)とは大神、大倭、葛木の鴨、出雲の大汝神等これなり。」

と記されている天神と地祇を調べる事にしました。

地祇を出雲国造神賀詞と比べると大神、葛木の鴨、出雲の大汝神は対応していますが、出雲の
大国主命(大汝神)の別名とされる大物主命と大汝神が二神のように記されています。
しかし注意深く見ると出雲大社の祭神(大汝神)と出雲大社はじめ181社の祭主である出雲
国造とを区分しており、出雲大社に祀られる大汝神は地祇、祀る側の出雲国造は国譲りを迫り
勝利した天神で有る事を明示しています。

また地祇の中に「大倭」と記され、私自身注目したことのない神社がありました。
この社は現在、奈良県天理市新泉町に鎮座する「大和(おおやまと)神社」です。
祭神は倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)、八千矛神(やちほこのかみ)、御年神(み
としのかみ)ですが異説もあるそうです。
倭大国魂神は大己貴命(大国主命)の荒魂とされ、八千矛神も大国主命の別名、御年神は葛木
の鴨氏の祀る神でいずれも出雲系です。


社殿は宮中三殿式春日造で三殿各々に千木2、堅魚木2本が掲げられています。

倭大国魂神について『日本書紀』によると
 9代開化天皇の都・春日から磯城に遷した10代祟神天皇は群卿百僚と共に天下を安らかに
治めようとしたものの、国内に疫病が発生し多くの者が死に、民はさすらう者や背く者もあり、
神祇をたのみ占った結果、これまで皇居の中に天照大神と倭大国魂神の二神を並び祀っていたが、
それが災いの元とその神の神威を怖れて皇女・豊鍬入姫命に天照大神を託し倭の笠縫邑で祀らせ、
皇女・渟名城入姫命に託し倭大国魂神を祀らせようとしましたが、渟名城入姫命は髪が落ち身が
痩せてまつることが出来なかったと伝えています。
その後大物主神の教えに従い、大物主神の子孫である太田田根子を探しだし大神の祭主とし、
長尾市を以て倭大国魂神を祀る祭主となし国内が安らかに治まったことを述べています。

祟神天皇条で三輪の大物主神を祀るように指名されたのはその子孫である太田田根子。
倭大国魂神を祀れと指名されたのが市磯長尾市(いちしのながをち)でした。
市磯長尾市は倭直(やまとのあたい)の祖ですが、さらにその祖の物語が神武天皇条に見えます。
国神で名は「珍彦(宇豆毘古・うづひこ)」といい、神武天皇東征の際に速吸門(はやすいのと)
を先導する海人として登場し「椎根津彦(しいねつひこ)」という名を賜います。

祟神天皇は古事記に「初国知らしし御真木天皇」。日本書紀に「御肇国天皇」・はつくにしらす
すめらみことと尊称されており、磯城に新王朝を開いた始祖と見られていますが国を安定させる
ためには祟る神・三輪の大物主神と倭大国魂神を祀らなければならなかった訳です。

中国の歴史書に記載された古代の日本は「倭人」あるいは「倭国」と記されています。
その「倭」を冠した「倭大国魂神」とは大和朝廷成立以前の<倭国の国魂>つまり<倭国を形成
した始源の神>を指しているように思われます。

そこで倭の始源とは何かを探してみましたところ宮中祭祀に興味深い記述がみつかりました。
日本の古代祭祀の研究書『大嘗祭の世界』(真弓常忠・1989年・㈱学生社)の中で、宮中の
祭祀を行うにあたって、御神楽を唱和する前に「阿知女作法(あちめのさほう)」を行うと
いう決まりがあると言うのです。

 御神楽の初めに和琴、笛、篳篥(ひちりき)、本拍子、末拍子の独奏があり一同唱和に移る
がその前に上方が「阿知女、於於於於」と唱えれば末方が「於介、阿知女、於於於於」と和する。
「阿知女」とは「安曇(あづみ)の磯良(いそら)」のことで阿曇氏の祖神であり、磯良は
神功皇后の三韓遠征に際して神々が軍議のために集まったとき、遅れて現れて永年海底に住ん
で牡蠣やヒシに取りつかれて醜い顔になっていることを恥じて浄衣の袖で顔を隠し、青農(細男
・才男・せいのう)を舞ったという。
「阿知女」とは「安曇女」「阿度目」であり「安曇磯良」を呼び出すものであった。
安曇(阿曇)氏を称する海人部は日本文化の最も古層を担っているので、平安時代の宮廷に
於いて民族の始源を語る神楽に阿曇氏の祖とする安曇の磯良を呼び出したのである。

この安曇磯良の墳墓とも伝えられるのが「いそらえびす」。
対馬の仁位にある和多都美(わたつみ)神社の社前の海辺にある鱗状を呈したひと抱えほどの
石である。
この「いそらえびす」の写真は日本の国歌で意味がよくわからなかった「さざれ石の巖とな
りて」のさざれ石ではないかと思いました。

次回は安曇磯良が倭大国魂神たり得るかを考察します。




















































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