ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

謎解き詠花鳥和歌 藤と雲雀(ひばり)ー27 小倉山と鹿⑫

2013-06-25 05:27:31 | 日本文化・文学・歴史
応神天皇の頃に秦氏の祖・夕月君が120県の人夫(たみ)を領(ひき)いて百済より帰化
(まう)くと『日本書紀』に記されている秦氏は、雄略天皇(5世紀)の頃には大和から山
城地域へ進出して開拓を進め、桓武天皇による長岡京(784年)や平安京(794年)を拓く礎
となり、現在に続く千年の都・京都は秦氏なくしてはあり得なかったと思われますが、彼ら
の進出してくる5世紀以前にも縄文、弥生時代以来の住民はいた訳で、長岡京の作られた地
域の元稲荷古墳には出雲系の向神が祀られておりました。

この向神とは出雲王朝の末裔である<富氏>の可能性を前回のブログで述べましたが、富氏
の主張をもう少し紹介し私なりに検証した結果をお目にかけたいと思いますが、富氏につい
ては吉田大洋著『謎の出雲帝国』(1980年徳間書店)から引用しています。

吉田大洋氏が取材した富氏の正式な名称は「富上官出雲臣財當雄・とみのじょうかん いづ
ものおみ たからのまさお)という。
 出雲神族は祖神の魂の具象化である勾玉を<宝石・たから>と呼び、これを付すことの
 できる王家を<財筋・たからすじ>と称した。上記の名称は「出雲神族(富一族)を統括
 する出雲臣・財筋の當雄」を意味する。現在出雲に残る財筋はわずかに12軒とか。この
 ことをとっても出雲神族への迫害がいかにすさまじいものであったかがわかる。また、富
 家の伝承は財筋の中の一番優秀な青年を選んで本家に迎え語り継ぐのだと言う。

そして、富氏への迫害(国造?朝廷?)がすさまじい時には「向」姓を名乗り、相手の力の
弱い時には「富」姓に戻すのだという。前回<向神>の<向>は古語では<服従する・服属す
る>意味に用いられていることから、<向神>とは天孫族に国譲りを迫られた出雲の大国主
命の末裔であろうと推量しました。
しかし富氏の証言がどの程度信頼出来るものか疑問に思われる方も多いと思いますので、氏
の証言が日本の文化の中に確実に残されていると思うものをお目にかけたいと思います。
以前、私の出版した『古代からの暗号』中の<伏見稲荷神符>でもふれました富家の家紋に
ついての証言をもう一度とりあげます。

 簸川郡富(とび)村に富家の先祖を祀った富神社がある。その紋章は亀甲の中に大根が二
 本交差した図柄だ。荒れ果てたその社殿の前で富さんは大根の紋章を見つめた。
 「うちの紋章は亀甲の中に矛が(ほこ)が二本交差したものだったのです。それを貞観二
 年といいますから平安時代に大根に変えさせられたんですよ。時の権力者にね。矛は王権
 の象徴ですから」

富氏の紋は本来二本の矛が交差したものだったが、大根が二本交差した紋に変えさせられた
という。この証言が本当なら現在もこの紋が使われている可能性があるだろうと思い角川書
店刊『日本家紋総鑑』で探してみたところ、大根紋の中に下図の<交い大根紋>が掲載され
ていました。

これらの紋を使用している家系には
 009 富田氏(出雲国より起こる宇多源氏佐々木氏族)
 010 本庄大根(本庄氏は丹後国宮津藩1716年から幕末までの大名家。その定紋)
         (美濃国高富藩の替え紋)
等の注記があり、出雲王家・富家から分かれたと思われる<富>を共有していました。
また、正しくは<矛>の紋であったとの事から探してみましたがやはり記載されてはいませ
んが、神社の神紋の中に興味深い紋をみつけました。もしかして矛が隠されているかもしれ
ないと思われる絵柄が描かれているのです。

上のふたつは<抱き稲>紋と呼ばれる稲荷神社の神紋です。
 008 埼玉県箭久稲荷神社
 009 京都伏見稲荷大社
このふたつの抱き稲のデザインは基本的には同じ系統ですが、008は真ん中の空間にもう
一つの輪が×印で断ち切られているように見えます。×の部分は刀剣あるいは矛が交差して
おり輪の部分は倭国の倭(大神神社は大三輪とも表記し、出雲系の神社です)と見たてる事
が可能ではないでしょうか。

箭久稲荷神社は和同5年(712年)に創建されたという古社で埼玉県東松山市にあります。
祭神は宇迦御魂神と豊受比売神。元は野久(やきゅう)が原の野久稲荷神社でしたが、平安
中期に下総国の城主・平忠常が謀反を起こし武蔵国の川越まで押し寄せてきました。
朝廷から平忠常の討伐の命を受けた源頼信は野久ヶ原に本陣を張り野久稲荷神社に戦勝祈願
をしたところ明けていく空に箭(矢)の形をした白雲がにわかに現れ、その箭は敵を射るか
のように飛んで行きました。頼信はこれぞ神の御加護と奮い立ち戦いに勝利しました。
これぞ神の御神徳によるものと社殿を建て替え寄進しましたが、それ以降箭久(やきゅう)
稲荷神社と替えるように命じました。
以来武人をはじめ関東一円から多くの参拝者でにぎわっていますが近年は野久・箭久(やき
ゅう)と野球を懸けて野球の神様のごとく、ベース絵馬やバット絵馬もあるというユニーク
な神社です。
京都の伏見稲荷大社の創建が和同4年(711年)ですからその一年後に武蔵国に作られた稲荷
社とはなんらかの繋がりがあるように思います。
ちなみに「獲加多支鹵」と雄略天皇名が象嵌されていた鉄剣が発掘された稲荷山古墳は行田市
にありますが、箭久稲荷神社とは荒川をはさんで10キロメートル有るかなしかの距離です。
この地も古代には出雲系の住む土地であったようです。

先の『古代からの暗号』の<伏見稲荷神符>では不思議な神符の絵柄の謎解きをして、祭神
である<宇迦御魂神>とは出雲の宇迦山に鎮まっている出雲大社の祭神・大国主命と解きま
した。つまり出雲王朝の末裔である富氏の祖先神ですが、この王家の紋章は二本の矛が交差
しているという証言を証するように箭久稲荷神社の神紋には×印が隠されていました。

次回も×印と出雲の関係をもう少し追いかけてみます。




 







 

 
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