ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

伏見稲荷神符5 丹塗矢の聖婚説話

2009-09-16 10:01:14 | 日本文化・文学・歴史
古代の渡来氏族の秦氏の斎き祀る稲荷神社の縁起には<餅を的に矢を射る>説が、
賀茂神社の縁起には<丹塗矢>の聖婚説話が語られているが、『古事記』の神武天
皇段にも<丹塗矢>が登場する。

  三島溝咋(みぞくひ)の女、名は勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)、其の麗
  しい容姿を三輪の大物主神が見初めて、その比売が大便をする時に、丹塗矢と
  化して溝を流れ下り、比売の冨登(ほと)を突いた。その矢を持ち帰り床の辺
  に置くと、忽ち麗しい男になった。そして比売に娶(まぎ)て生まれた子が、
  冨登多多良伊須須岐比売命(ほとたたらいすすきひめのみこと)またの名を
  比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)という。この比売は
  後に神武天皇の皇后になる。

この説話の丹塗矢は男性の性器の象徴と見なされており、女の側から見ればなんと
も理不尽で乱暴な行為であり、現代なら婦女暴行罪にあたろう。
では、神話時代の求婚を知る手がかりを『古事記』に見よう。

  八千矛の神(大国主命)は遠い遠い高志の国に、賢い麗しい女がいると聞いて
  求婚に通い続ける。歌をうたい気持ちを伝えても、沼河比売(ぬながわひめ)
  は容易に戸を開けようとしない。だが、やがて返事が来る。
  「緑深い山に日が隠れ、夜になったならばいらっしゃって下さい。そして私の
  白い腕、淡雪のような胸を抱いて、私の手を枕にして、ゆっくりと脚を伸ばし
  てお休みください。」と、こうして二人は結婚したというのだ。

求婚は昔も今も同じように男女の合意によって成り立つわけで、<男が矢に化す行
為>は戦の勝者が敗者の女を得た場合の比喩的表現と考えられはしまいか?

記紀にはその出自と宮名と陵名のみしか載らないために、その実在性を疑われてい
る二代のスイゼイ天皇より九代の開化天皇までを欠史八代と呼んでいるが、しかし
その皇妃達の出自は記されている。それによると磯城県主(しきあがたぬし)・
春日県主(かすがあがたぬし)・十市県主(といいあがたぬし)何某とあり、大和
の豪族の子女であることがわかる。

これを歴史学では
 五世紀以前の大和朝廷が磯城県主などの祖である周辺地域の小国の首長を制圧し
彼らと密接な関係を樹立させたことが婚姻関係の伝承として示されているのであろ
うか。あるいはまた大和朝廷がこれらの小国を充分制圧しきれなかったことが、こ
れら小国の首長である後の磯城県主などとの独自の婚姻関係としてあらわれている
のであろうか。(岩波文庫『日本書紀』補注3-21)とふたつの考えを示している。

だが古代の采女(うねめ)とよばれる天皇のみに仕える女官らは、大和朝廷が地方
豪族に服属の証として子女を貢上させていた事実もあるので<男が矢に化す行為>
はそれが神であったしても、女性の側を支配した場合の比喩的表現であると思う。

先に紹介した『山城国風土記』逸文の賀茂神縁起で<丹塗矢と化した神>である<乙
訓に座す火雷神(ほのいかづちのかみ)>とは『秦氏本系帳』によると<松尾神社
の神>とされている。
現在、京都市嵐山に鎮座する松尾大社で、大山咋神は古事記に「葛野(かどの)の
松尾に坐ます鳴鏑(なりかぶら)になりませる神」と記されている。
鳴鏑とは何であろうか?













  
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