越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越前国朝倉家との友好関係について

2013-12-21 18:48:19 | 雑考
 
 越後国長尾景虎(上杉輝虎)は、永禄3年に常陸国衆の佐竹義昭から関東出陣を求めらた際、どのような勢力からでも、支援を求められれば、分け隔てなく手を差し伸べることと、累代の友好国である越前国朝倉家と協力して、北国に安寧をもたらすことを標榜している。

 この越前と越後の両国間で結ばれた盟約に従って朝倉義景は、長尾・上杉軍が信州や関東へ出陣すると、加賀一向一揆を封じ込めるため、しばしば賀州へ軍勢を派遣している。一方、上杉輝虎は永禄8年2月に、越前国朝倉義景からの出陣要請に従い、賀州へ向けて進発するつもりでいたが、関東情勢の悪化により、同月下旬に関東へ出陣したので、朝倉家との約束を果たせなかった。そして、永禄8年6月に輝虎は朝倉義景に対し、将軍足利義輝が横死した事実を問い合わせるとともに、朝倉軍との賀州に於ける初秋の合同軍事作戦を承諾したところ、朝倉家の取次である山崎吉家と朝倉景連から上杉家の取次である直江政綱に宛てて返書が送られ、将軍家遭難について子細を伝えられるとともに、合同軍事作戦の実施について念を押される一方で、朝倉景連から直江政綱に宛てて私信が送られ、上杉軍と賀州で共闘するに当たって、両家の円滑な連携を図るために万事を取り持ち、上杉家について色々と不平を鳴らす連中の形勢は抑えることを保証されており、このように約束を反故にした上杉家を快く思わない朝倉家中が少なからず存在していたことが分かる。結局、この時も上杉軍は賀州に出陣できなかった。

 それから天正元年8月に朝倉家が織田信長によって滅ぼされるまでの間にも、越前と越後の連合軍による賀州進攻が実現することはなかった。

『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』80号 朝倉宗滴書状、205号 長尾景虎書状(写)、452・453号 上杉輝虎書状(写)、459号 山崎吉家・朝倉景連連署状、460号 朝倉景連書状 ◆『富山県史 史料編Ⅱ 中世』1575号 朝倉宗滴書状(写) ◆『福井県史 通史編2 中世』
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