天文20年(1551)正月~3月 越後国長尾景虎(平三)【22歳】
〔景虎、上田長尾方の村松城を攻略する〕
古志郡で在陣を続けるなか、志度野岐庄石坂郷の村松城を攻め落とすと、正月26日、戦功を挙げた旗本の小越平左衛門尉に感状を与え、このたび村松要害を攻め落とした折、上屋を討ち取られた戦功は、殊勲の極みであること、いよいよもって粉骨を励むべきこと、これらを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』47号「小越平左衛門尉とのへ」宛長尾「景虎」感状写)。
さらに、魚沼郡上田庄の広瀬郷へ攻め入り、広瀬衆の佐藤入道・同清左衛門尉父子を討ち取った(『上越市史 上杉氏文書集一』56号 長尾政景判物写)。
〔兄晴景が死去する〕
2月10日、こうして景虎が越府不在のなか、前守護代で、兄の弥六郎晴景が病歿する(『新潟県立歴史博物館研究紀要 第9号』高野山清浄心院「越後過去名簿」)。
〔堀内・妻有地域の諸領主が上田勢から要害を守り切る〕
21日、この正月中旬に上田長尾六郎政景(関東管領山内上杉家の家領である越後国魚沼郡上田庄の代官の系譜。坂戸城を本拠とする)の陣営から離脱した宇佐美定満(前上杉家の譜代家臣)の拠る越後国魚沼郡堀内地域の真板倉(平)城へ加勢に向かわせた旗本の庄田惣左衛門尉定賢へ宛てて感状を発し、真板倉へ加勢として移り、しっかりとその地に在城しているそうであり、陣労を物ともしておらず、感じ入っていること、其元の防備などを堅固に整え、ますますその奮闘に及ぶのが肝心であること、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』231号「庄田惣左衛門尉殿」宛長尾「景虎」書状写)。
※ 当文書を、『謙信公御書集』は天文23年に置いているが、その年に魚沼郡の真板板平城へ援軍を送るような内乱状態にはなく、天文19年正月中旬に真名板平城に拠る宇佐美定満が上田長尾陣営を離反し、守護代長尾陣営に帰服しており、それで景虎が援軍を真名板平城へ送ることになったのであろうから、当年の発給文書として引用した。
24日、去る21日に越後国魚沼郡妻有地域(波多岐庄)の上野の地(上野家成が拠る節黒城であろう)に攻め寄せた上田勢を撃退した中条玄蕃允(上野同様、妻有地域の領主の一人で、波多岐荘大井田郷の大井田城を本拠とする)へ宛てて感状を発し、去る21日、その地へ上田衆が攻め懸かったところ、一戦に及び、主立った者共を数多討ち取られた戦功は、殊勲の極みであること、言うまでもなく明らかなものであること、ますますもって抜かりなく奮闘されて勝ち切るのが肝心であること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』48号「中条玄蕃允殿」宛長尾「景虎」感状写)。
3月13日、中条玄蕃允へ宛てて感状を発し、このたび上田の人数が上野の地へ攻め懸かったところ、勝利を挙げて、地利を堅持されているわけで、並外れた戦功であること、ますますもって忠信を励むのが肝心であること、されば、(中条玄蕃允の)本領については、間違いのないように、(景虎の)力の及ぶ限り正常に調えること、これらを恐れ謹んで申し伝えた。さらに追伸として、その庄における本地については、間違いなく調えるので、ますます奮闘されるべきこと、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』50号「中条玄蕃允殿」宛「長尾 景虎」感状【花押a1】 封紙ウワ書「中条玄蕃允殿 長尾」)。
こうした場合、妻有地域(波多岐庄)の諸領主は、上野氏の要害に集まり、一丸となって戦う。
この間、3月2日、越後国古志郡栃尾領の常安寺へ宛てて証状を発し、先年の不慮の鉾楯(長尾晴景と景虎の兄弟間抗争)の折に、忠信を励まれたのは比べものにならないこと、これにより、当寺開基の験として般若院分ならびに法用院分の地を宛行ったこと、永代にわたって他者から妨害はさせたりはしないものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』49号「常安寺」宛長尾「景虎」判物写)。
一方、上田長尾六郎政景は、正月15日、同心(与力)の発智右馬允長芳(もとは越後国上杉家の譜代衆。魚沼郡藪神地域の山田城に拠ったと伝わる)へ宛てて書状を発し、このたびその地(山田城)に在城されての御奮闘は歴然の事実であること、敵が引き退いたので、金子勘解由(上田衆の金子勘解由左衛門尉尚綱。魚沼郡堀内地域の板木城に置かれている)が今夜中に(山田城へ)移ると、(金子尚綱から)注進が届いたこと、その首尾はどうなったのか(発智長芳からこちらに知らせてほしいこと)、このうえ(山田城の)防備をますますもって堅固にするための(金子と)御談合が肝心であること、なお、(詳細は使者の)口上のうちに申し含めたこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』40号「発智右馬允殿」宛長尾「六郎政景」書状)。
同日、上田長尾政景の側近である栗林長門守経重が、発智右馬允長芳・原丹波守へ宛てて副状を発し、このたびその地に御在城しての御奮闘は、誠にもって並外れたものであると承知していること、敵が昨日の戌刻(午後8時前後)に引き退いたからには、金勘(金子勘解由左衛門尉尚綱)は丑刻(午前2時前後)に板木からその地へ罷り移ると、申し越したこと、その首尾はどうなったのか、承りたいばかりであること、何としても政景方から使いをもって、(発智・原へ)御奮闘に対する趣を申し届けられること、このうえの敵の手捌きがどうであるのか、いずれにしても、その地の(敵方への)御対策が万全であるならば、安心な思いであること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』41号「発右・原丹 御宿所」宛「栗長 経重」書状)。
16日、広瀬衆の穴沢新右兵衛尉(実名は長勝と伝わる。魚沼郡広瀬地域の鷹待山城を本拠とする))へ宛てて感状を発し、このたび宇佐美駿河守(定満)が変節したところ、いつもながらとはいえ、皆々(広瀬契約中)が奮闘してくれたそうであること、感じ入っていること、ますますもって忠信を励むのは今この時であること、なお、(詳細は)栗林長門守(経重)の所から申し遣わすこと、これらを謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』42号「穴沢新右兵衛尉殿」宛長尾「政景」感状)。
天文18年末頃に守護代方から上田方へ転じた宇佐美定満だが、年が明けて中旬には守護代方に復したことになる。
18日、同心の発智右馬允長芳へ宛てて書状を発し、このたび(発智長芳の)御老母・御足弱(妻)ならびに息達が敵方へ引っ捕らえられてしまったこと、誠にもってどうしようもなく、口惜しい事態であること、なお、(詳細は)使い(石井雅楽助)に口上を申し付けたこと、(発智にとっては)どうにも許容し難い事態であるにより、ここは先忠を守られて、まずは奮闘するのが肝心であること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』43号「発智右馬允殿」宛長尾「六郎政景」書状)。
同日、上田長尾政景の側近である栗林長門守経重が、発智右馬允長芳へ宛ててて副状を発し、一昨日にも申し上げた通り、このたび老母様・御内儀ならびに御息達がことごとく敵方へ引っ捕らえられてしまったのは、誠にもって無念であり、口惜しい事態であること、御心底が揺れ動かないように願うばかりであること、そうでは言っても、(発智にとっては)御許容し難い事態であるので、ここは筋目に従われて御忠信を励まれるのが肝心要であること、これにより、(政景は)直書をもって申し届けられること、なお、(詳細は)石井雅楽助が申し分けること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集』46号「発右 御宿所」宛「栗長 経重」書状)。
同日、小平尾小屋中・須加(須川ヵ)小屋中(ともに広瀬契約中が拠る魚沼郡広瀬地域の砦)の面々へ感状を発し、このたび宇佐美駿河守(定満)が変節したところ、いつもながらとはいえ、皆々が奮闘してくれたので、感じ入っていること、ますますもって忠信を励まれるのは今この時であること、なお、(詳細は)栗林長門守(経重)の所から申し遣わすこと、これらを謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』44号「小平尾 小屋中」宛長尾「政景」書状写、45号「須加 小屋中」宛長尾「政景」書状写)。
このあと、景虎は上田長尾政景から和平を求められる。
天文20年(1551)6月~7月 越後国長尾景虎(平三)【22歳】
6月28日、越後国蒲原郡加地庄の蒲原津に駐在する大串 某(実名は後実か)に証状を与え、三ヶ津(沼垂・蒲原・新潟湊)横目代官職に関しては、由緒に任せて申し付けること、されば、上分(収益)については、検見の結果次第で、厳重に徴収するべきこと、今後は従来通りに在府を遂げて職務に当たるのが肝心であること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』52号「大串殿」宛長尾「景虎【花押a1影】」安堵状写 ● 『新潟県立歴史博物館研究紀要 第9号』高野山清浄心院「越後過去名簿」)。
〔景虎、上田攻めを決する〕
この春に上田長尾六郎政景が和睦を懇願してきたにもかかわらず、一向に進展させないばかりか、策謀を巡らしているのが明らかであることから、越後国のうちでも巷の地であった上田の坂戸城(『上越市史 上杉氏文書集』1696号 上杉景虎書状写)への総攻撃を決すると、7月7日、三奉行の庄(本庄)新左衛門尉実乃(大身の旗本衆。越後国古志郡栃尾地域の栃尾城を本拠とする)・大熊備前守朝秀(前上杉家の譜代衆。越後国頸城郡板倉地域の箕冠城を本拠とするか)・小林新右兵衛尉宗吉(前上杉家の譜代衆か)が、越後国魚沼郡小千谷の領主である平子氏(前上杉家の譜代衆。薭生城を本拠とする)の年寄中へ宛てて書状を発し、上田への御手立ての日限に関しては、(景虎が)脚力をもって申し上げられること、(近隣の)皆々と仰せ合わされての御出陣が肝心であると存じ上げること、詳細は(脚力の口上のうちに)申し含められたこと、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』53号「平子殿 人々御中」宛「庄新左衛門尉実乃・大熊備前守朝秀・小林新右兵衛尉宗吉」連署状写)。
そして、坂戸城攻めの日時を8月朔日に定めると、23日、小千谷の平子孫太郎へ宛てて書状を発し、上田の一件は、(長尾政景が)去春以来、無為(和平)を懇望しているので、内々にはその意向を受け入れるつもりでいたところ、落着のに関しては、とやかく言って延引し、おまけに折柄が良くないともったいぶるなどしていること、これはすなわち計策であるのは間違いのないことであろうし、こうなったからには、迅速に行動を起こすつもりであること、されば、来る朔日、(平子においては)御陣労であるとはいえ、彼の口への御発向が肝心であること、委細は各所(三奉行)から申し入れること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』54号「平子孫太郎殿」宛「長尾平三 景虎」書状【花押a1】 封紙ウワ書「平子孫太郎殿 長尾」)。
同日、三奉行の庄(本庄)新左衛門尉実乃・大熊備前守朝秀・新保八郎四郎長重(前上杉家の譜代家臣であった新保勘解由左衛門尉景重の後継者)が、平子孫太郎へ宛てて副状を発し、上田へ迅速に戦陣を催すつもりであること、来る朔日に、(平子においては)御陣労であるとはいえ、彼の口への御発向が肝心であると、なおもって(三奉行はそれらを)心得たうえで(平子へ)申し入れるべきとの(景虎の指図であった)こと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』234号「平子殿 参御宿所」宛「庄新左衛門尉実乃・大熊備前守朝秀・新保八郎四郎長重」連署状写)。
景虎側近の新保長重は、これからそう遠くないうちに早逝してしまったようで、景虎が上杉輝虎期に自身とは関係が深い、はやくに亡くなった人物たちを弔っている「林泉寺過去帳」(林泉寺文書)にその名が記されている。
〔景虎、上田長尾政景を降伏させる〕
上田攻めの前に上田長尾政景が降伏してきたので、減封処分を科して赦免した(『上越市史 上杉氏文書集一』291号 上杉政虎条目写、393号 上杉輝虎書状写)。
天文20年(1551)10月 越後国長尾景虎(平三)【22歳】
3日、長尾景繁(山東郡司か)が、山東郡籠田地域の名主である村田次郎右兵衛方の小林神左衛門尉へ宛てて過所状を発し、村田椎名分の西方の馬一匹に関しては、米売買のため、路次の通行を間違いなく保障すること、これらを申し渡している(『新潟県史 資料編5』2641号「村田 次郎右兵衛所 小林神左衛門尉殿」宛長尾「景繁」過所)。
28日、唐人座の座長である吉井三郎左衛門尉に免許状を渡し、唐人座(輸入品あるいは薬品を商うという)の諸商売に関しては、(長尾上野入道)性景・高岳(長尾信濃守能景)両判の旨に任せ、その計りに相違があってはならないものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』55号「吉井三郎左衛門尉殿」宛長尾「景虎」免許状写)。
天文20年(1551)11月 越後国長尾景虎(平三)【22歳】
〔揚北衆の本庄一族の間で起こった抗争が収まる〕
これより前、越後国瀬波(岩船)郡小泉庄において、揚北衆の本庄弥次郎繁長(同村上城を本拠とする外様衆)が、長年にわたる無礼な振る舞いを理由に叔父の小河右衛門佐長資(同小河城を本拠とする外様衆)を切腹させると、小河長資とは懇意にしていた鮎川摂津入道元張(岳椿斎。俗名は清長。同大葉沢城を本拠とする外様衆)がこれに怒り、本庄繁長に対抗したことから、やはり同族の色部弥三郎勝長(同平林(加護山)城を本拠とする外様衆)の仲裁に入り、10月から11月にかけて三者の間で案文のやり取りを重ね(『新潟県史 資料編4』1108号 本庄繁長起請文案、1108(ママ)号 色部勝長起請文案、1109・1110号 本庄繁長起請文案、1111・1112号 鮎川元張起請文案)、練り上げた誓詞を翌月に交換して和解が成立する。
3日、本庄弥次郎繁長が、色部弥三郎勝長へ起請文を渡し、右衛門佐(小河長資)が年来、(本庄繁長に対して)慮外の働きを連続していたゆえ、このたび切腹させたこと、これにより、鮎川から此方(本庄)に対し、違乱したのは覚えのほかであること、そうしたところ、貴所(色部勝長)がしきりに無事の御取り持ちをしたからには、その意見に任せて和与を遂げたこと、今後は鮎川が(本庄に対して)ちょっかいを出してきたりしたならば、(色部においては)爰元への御同心あるべきで、その御心得が肝心であること、殊に岳椿斎(鮎川元張)からその地(色部)への証札には、除散した者共(本庄・小河家から立ち去った者たち)の事柄が書き加えられていること、これは(彼らが)、当家中であるといい、大川(本庄一族の大川 某。越後国瀬波(岩船)郡の藤懸(府屋)城を本拠とする)の口添えをもって赦免したといい、この通りであるので、特には言うに及ばないこと、ただし、彼の者共はこれから以後に至っては、違儀の事態でも起こったならば、その理非を決すること、たとえ貴所(色部)と某(本庄)の間において、どのような形での表裏などの作り話が流れてきたとしても、相互でこれを明らかにして、ますます甚深に申し談じていくことに異論はないであろうこと、この旨を偽るに至っては、諸神の御罰を蒙るものであること、よって、起請文に記した通りであること、これらを誓約している(『新潟県史 資料編4』1985号「色部弥三郎殿」宛本庄「弥次郎 長」起請文)。
欠損部分は1109号の本庄繁長起請文案を参考にした。
同日、鮎川岳椿斎元張が、色部弥三郎勝長へ起請文を渡し、起請文、このたび本庄の家中で間の宿意と号し、右衛門佐(小河長資)が切腹し、これにより、彼方とは、近年は申し談じてきたといい、間柄といい、あれこれの首尾をもって、一度は弥次郎(本庄繁長)とは距離を置いていたところに、其元(色部勝長)からしきりに御意見の旨が届いたので、およそ、彼方(本庄)に対し、異議を求めるものではないにより、御口添えに任せ、和談を遂げたこと、今後はもしも本庄から(和談に)違乱する事態にでもなったならば、(色部には)当方への御同心を、その御心得が肝心であること、このうえにおいても、万が一にも(鮎川が面倒を見ている)右衛門佐家風ならびに山辺掃部助(本庄家中)が言い付けに従わずにあれこれ口を挟んできたならば、まずは事情によるので、見捨てはしないこと、其元(色部)に関しても御同意が専一であること、今から以後は、貴所(色部)に対し、ますます間柄を御等閑(疎か)にはしないこと、たとえ後の世上がどのような表裏などの作り話をしたとしても、御信用はされないでほしいこと、一通り申し合わせたからには、(色部・鮎川の)相互に異議はないであろうこと、もしもこの旨をもって偽るならば、諸神の御罸を蒙るものであること、よって、前記した通りであること、これらを誓約している(『新潟県史 資料編4』1107号「色部 弥三郎殿 参」宛「鮎川 岳椿斎 元張」起請文)。
11月5日に本庄弥次郎繁長から鮎川岳椿斎元張へ渡された起請文案には、来書の通り、このたび右衛門佐切腹について、(鮎川が)爰許(本庄)へ距離を置かれたのは、覚えのほかであること、そうではあっても、平林(色部)から御口添えをもって無事に属したからには、今後においても御別条はないわけであると承ったので、此方(本庄)の異論はないこと、もしもこの旨を偽ったならば、諸神の御罰を蒙るものである、と記されており、あらためて5日以降に、これと同文か一部の文言が変更された起請文が本庄から鮎川へ渡されたはずである(『新潟県史 資料編4』1110号)。
この前後に揚北では、中条弥三郎(実名は房資か。のちの越前守景資。越後国蒲原郡奥山庄の鳥坂城を本拠とする外様衆)が隣国伊達家と示し合わせて、同族の黒川四郎次郎(実名は平実であろう。同黒川城を本拠とする外様衆)を攻撃している(『上越市史 上杉氏文書集一』83号)。
10日、上田長尾政景が、広瀬衆の佐藤彦次郎(実名は義秀か)へ宛てて証状を発し、去る正月に、古志郡からの攻撃により、祖父入道ならびに父清左衛門が討死にしてしまい、忠信は比べものにならないこと、されば、所持している名田のうちから来たばかりの土貢弐百疋、同じく佃を、給恩として出し置くこと、そのほかの諸役を退転なく勤めて奔走するべきものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』56号「佐藤彦次郎殿」宛長尾「政景」判物写 ●『越後入廣瀬村編年史 中世編』西暦一五五一 天文20年辛亥の条)。
この佐藤彦次郎は、のちの石見守義秀とされている(『越後入廣瀬村編年史 中世編』)。「御家中諸士略系譜」(『上杉家御年譜 24』)では、当文書の件と、上杉景勝期の天正16年11月に新発田在城を命じられた件が事跡として記載され、後者も文書でその事実が確認できる(『上越市史 上杉氏文書集二』3268号 上杉景勝朱印状写)。広瀬衆の佐藤氏といえば平左衛門尉であり、同系譜でも義秀以降の歴代は平左衛門を通称している。謙信期の天正4年3月に上杉景勝から知行を安堵されたり、景勝期の天正6年から同8年にかけては御館の乱で活躍したり、その後は一時、琵琶嶋城に置かれたりした平左衛門尉(『上越市史 上杉氏文書集一』1283号 上杉景勝判物写 ●『上越市史 上杉氏文書集二』1549・1592・1621・1653・1816・1834・1853・1871・1874・1911・1920・1921・1634号 上杉景勝書状写、3862号 上条宜順書状写)は、系譜で義秀の次代に当たる平左衛門尉秀信とされているが、むしろ石見守を称する以前の義秀こそがこれに当たり、御館の乱時に平左衛門尉と共に見える新次郎(『上越市史 上杉氏文書集二』1911号 上杉景勝書状写)が秀信に当たるのであろう。
20日、越後国蒲原郡三条領の本成寺で火事が起こり、相伝文書以下を焼失してしまう(『上越市史 上杉氏文書集一』59号 山吉政応証状)。
天文20年(1551)12月 越後国長尾景虎(平三)【22歳】
〔景虎、官途獲得のため、将軍の許へ神余父子を上らせる〕
これより前、将軍足利義藤(のちに義輝と改める。このたび三好長慶(筑前守)と和解して江州から還京した)に金品を献上して官途を得たので、謝礼をするために使者の神余隼人入道(俗名は実綱。これまで越後国上杉家の京都雑掌を務めていた。旗本衆)・同小次郎父子を上洛させると、道程の越前国朝倉義景(左衛門督)や江州六角佐々木定頼(弾正少弼)に領国通行の際の便宜を要請したところ、18日、佐々木定頼が返状を書き記し、音信として、太刀一腰と弟鷹(雌鷹)一連が、神余入道をもって贈られたこと、遠路にもかかわらず、懇志の極みであり、祝着であること、格別に愛玩していること、よって、(返礼として)兼定作の太刀一腰と紅毛氈鞍覆一具を差し上げること、なお、(詳細は)進藤新次郎(賢盛。六角佐々木家の重臣)が申し届けること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』57号「長尾平三殿」宛佐々木「定頼」書状【封紙ウハ書「長尾平三殿 定頼」】)。
同日、進藤新次郎賢盛が副状(謹上書)を書き記し、御音信として、御太刀一腰と弟鷹一連を遣わされたこと、御懇ろであるとして(佐々木定頼が)直札をもって申し届けられること、よって、兼定作の一振と紅毛氈鞍覆一具を差し上げられること、そこを心得てもらうために申し入れるとのこと、従って、私(進藤賢盛)へも一腰を贈って下さり、恐れ多いこと、(進藤からも)とりもなおさず一振を進上すること、委細は神余入道殿の演説のうちにあること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』58号「謹上 長尾平三殿」宛「新次郎賢盛」書状【封紙ウハ書「謹上 長尾平三殿 進藤新次郎賢盛」】)。
両書状は天文21年6月28日に神余父子が持ち帰る。
古志郡栃尾領内の守門神社と諏方神社の間で相論が起こり、20日、古志郡司であろう長尾景憲が、守門神社の宮司である藤崎文八へ宛てて書状を発し、塩の地(同塩条)を巡る諏方神社と其方(守門神社)の間で相論において、(守門社が諏方社を)言い込めたそうであるが、双方の言い分を聞き合わせたところ、諏方の社人の言い分には非の打ち所がないので、今後においては、(長尾景憲が)塩之条の相論を取りさばくこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『新潟県史 資料編5』3316号「藤崎▢(文)八殿」宛長尾「景憲」裁許状)。
天文21年(1552)4月~6月 越後国長尾景虎(弾正少弼)【23歳】
4月3日、蒲原郡司の山吉政応(恕称軒。孫四郎・丹波守政久。上杉定実・長尾為景期からの守護代長尾家の重臣。越後国蒲原郡三条領の三条城を本拠とする)が、菩提寺の本成寺へ宛てて証状を発し、去る11月20日の火事で、御文書以下を御焼失した件は、痛ましい思いであること、そうではあっても、御寺領などは本地・新地ともに、間違いなく安堵すること、ついでをもって、 (景虎が)御上判を御調えらること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』59号「本成寺 参」宛山吉「政応」判物写)。
〔景虎、揚北衆の中条・黒川の同族間抗争を調停する〕
昨年以来から続く、揚北衆の中条弥三郎(実名は房資か。のちの越前守景資。越後国蒲原郡奥山庄の鳥坂城を本拠とする外様衆)と黒川四郎次郎(実名は平実であろう。同黒川城を本拠とする外様衆)同族間抗争の調停をあらためて試み、6月18日、蒲原郡司の山吉丹波入道政応が、揚北衆の色部弥三郎勝長へ宛てて書状を発し、それ以来は随分と久しく申し達していなかったにより、切紙をもって申し届けたこと、よって、中条と黒河の御間で、際限なく争いが続いており、そういうわけで、この口の代官を務めてきた身といい、(色部家とは)長年にわたって申し談じてきたといい、このような折に双方の御無事を御取り合わせしたい覚悟をもって、黒河へ使者を遣わしたこと、貴殿からも(黒川へ)適当な御意見を加えられれば、本望であること、その様子を詳しく仰せを受け取ったら、折り返し申し届けること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』81号「色部弥三郎殿 参御宿所」宛「山吉丹波入道政応」書状)。
21日、黒川四郎次郎が、山吉丹波入道政応へ届ける返状の案文を書き記し、来簡の趣を詳しく披読したこと、ならびに使者の口上の旨も承ったこと、されば、(山吉政応から)中条との間の件を示し給わったこと、およそ、このたびの楯鉾(相克)の様子においては、大筋を昨年から言い続けているにより、(この紙面では)繰り返さないこと、それからまた、先年に中条弾正忠(実名不詳。弥三郎の父であろう)が伊達からの迎養を世話し、とりわけ、時宗丸殿(故上杉定実の後継者となるはずであった伊達藤五郎実元。羽州米沢の伊達家の現当主晴宗の弟)が(越府へ)引き越すための算段を立てたこと、おまけに彼(中条弾正忠)の手引きをもって、伊達の人衆が本庄・鮎川の要害を攻め立てたにより、彼の面々は大宝寺(出羽国庄内)へ退去し、すでに(瀬波が)他の国になってしまった形勢が、嘆かわしいので、色部に同心して、揚北中と申し合わせ、中条の前面へ押し寄せ、巣城(主郭)ばかりにしておき、いざ落居の間際、伊達から晴宗(次郎)が無事を取り扱うとして、使者に及ばれたからには、拙者(黒川四郎次郎。ただし、当時は四郎次郎の父である四郎右兵衛尉清実が当主であった)からも越府へ注進に及んだこと、府内(長尾晴景)からも筋目を承ったにより、その意向に任せたこと、そうしたところに、前段の弓矢の威勢をもって、境を接する上郡山(伊達家の外様衆。出羽国置賜郡小国の小国城を本拠とする)を誘い込み、(中条)弥三郎は重ねて伊達へ申し合わせ、当地へ向かって武威を剥き出しにしたのは、国方に対する逆意であるにより、事ここに至ったからには、方々の助勢を得て、静謐に及ぶつもりであったところに、ただ今は和融するようにと承ったこと、今さらに意外であること、爰元の事情の御斟酌が肝心であること、この紙面に明白である通り、一庄(奥山庄)の事態であるといい、この頃は別条はなかったこと、そのゆえは、(中条)弥三郎家中が弥三郎の命に服さない者が(黒川領へ)逃げ込み、彼の処分をひとえに頼まれたにより、石井をはじめとして、そのほかの者も追伐し、即座に本意を遂げたこと、それは紛れもない事実であること、このようなところに、(事を構えたのが)我儘な振る舞いであるのは、明白であること、ここをもって彼の者(中条)の覚悟の様を御推察してほしいこと、詳細はなお、使者の口説に任せて(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』83号「山吉丹波入道殿」宛「黒川 実」書状案)。
23日、色部勝長が、山吉丹波入道政応へ届ける返状の案文を書き記し、黒河・中条間の無事の件について、(山吉が)四郎次郎方へ使僧を越された折であること、委細を彼方(黒川)から返答に及ばれること、それからまた、その口(三条)は豊饒であるそうで、何よりも適当であること、爰元(色部)の(仲介人としての)心構えは以前と同様であること、なお、異変があったならば、申し届けること、万端は使者の口説に任せて(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』84号「山吉丹波入道殿」宛「色部 勝長」書状案)。
両書状案の正文は23日以降に蒲原郡司の山吉政応へ届けられたであろう。
〔景虎、関東屋形上杉成悦の関東復帰のために準備を進める〕
これより前、相州北条方の攻勢に屈して越後に逃げ込んできた関東管領山内上杉成悦(五郎憲政・憲当)の帰国を援助するため、上州へ僧侶を派遣して関東の様子を探らせたところ、5月24日、越府の上杉成悦から、越後国魚沼郡上田庄の領主である長尾越前守政景(同坂戸城を本拠とする)へ宛てて書状が発せられ、それ以来は、良くも悪くも知らせるほどの事案がなかったこと、よって、同名平三(景虎)が上州へ差し遣わした使僧が帰府したこと、彼の国の様子をいよいよもって聞き届けたので、関東越山の挙行を急ぐべきであること、怠りない準備が肝心であること、かならず爰元の事情などは、平三方(景虎)から(上田長尾政景へ)申し越すであろうこと、それからまた、(景虎から)山中の路次に関して、(政景が整備を)申し付けられているとしたら、堅実に取り組むべきこと、これらを謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』62号「長尾越前守殿」宛上杉「成悦」書状写)。
〔神余父子が景虎の官途獲得のために運動する〕
4月8日、管領細川晴元(右京大夫)が返状を書き記し、音信として、大鷹一連と馬一匹が到来し、喜びもひとしおであること、よって、(返礼として)楊茂作の堆朱の香合(香料を収納する容器)一合と堆朱の盆一枚を遣わすこと、なお、(詳細は)波々伯部伯耆入道(宗徹)が申し届けること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』60号「長尾平三殿」宛細川「晴元」書状【封書ウハ書「長尾平三殿 晴元」】)。
5月24日、大覚寺門跡義俊が返状を書き記し、芳札を披読したこと、本望であること、殊に青銅(銭)千疋を送り給わったこと、祝着の極みであり、筆舌に尽くし難いこと、よって、(返礼として)大緒(鷹を繋ぐ紐か)二筋を、些少で憚られるとはいえ、進上すること、なお、重ねて申し届けること、これらを畏んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』63号「長尾弾正少弼殿」宛大覚寺義俊書状【署名はなく、花押のみを据える】【封紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 (花押)」】)。
25日、将軍足利義藤が御内書を書き記し、(官途獲得のための)礼として、長光作の太刀一腰・河原毛の馬一匹・青銅三千疋が到来し、めでたいこと、よって、(返礼として)国宗作の太刀一振を遣わすこと、なお、(詳細は)晴光(申次の大館左衛門佐晴光。奉公衆)が申し届けること、これらを申し渡している。また、別紙において、大鷹一本が到来し、こよなく愛玩しており、喜びもひとしおであること、なお、(詳細は)晴光が申し届けること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』64・67号「長尾弾正少弼とのへ」宛足利義藤御内書【署名はなく、花押のみを据える】【封紙ウハ書「長尾弾正少弼とのへ」】)。
同日、大覚寺門跡義俊が返状を書き記し、公儀(足利義藤)へ御礼を申し入れられたこと、喜びを感じられていること、殊に進上の御馬は、御上洛時の御乗馬となったこと、何より珍重であること、御愛玩のほどが知られること、よって、(御返礼として)御太刀一腰を、 御内書をもって遣わされること、なお、(詳細は)大館左衛門佐(晴光)が申し届けられること、これらを畏んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』65号「長尾弾正少弼殿」宛大覚寺義俊書状【署名はなく、花押のみを据える】【封紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 (花押)」】)。
同日、大館晴光が副状を書き記し、御礼として、長光作の御太刀一腰・河原毛の御馬一匹・鵝眼三千疋を御進上のこと、披露に及んだところ、 (御返礼として)御内書を書き記され、国宗作の御太刀一振を下されること、なお、その意を心得るようにと、仰せ出されたこと、珍重であること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。また、別紙において、大鷹一本と鳥屋を御進上のこと、披露に及んだところ、 (足利義輝は)喜びを感じられていること、よって、 (御返礼として)御内書を書き記されたこと、なお、その意を心得るようにと、仰せ出されたこと、珍重であること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』66・68号「長尾弾正少弼殿」宛大館「晴光」副状【封紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 大館左衛門佐 晴光」】)。
同日、大館晴光が返状を書き記し、御礼を御申しの次第ならびに御鷹の御進上を披露し、いずれも別紙で御返事したこと、ついでに私(大館晴光)へも太刀一腰と鳥目五百疋を上せ給わったこと、めでたく祝着の極みであること、よって、(返礼として)太刀一振を進上すること、誠に祝意を述べるばかりであること、なお、(詳細は)神余隼人入道(実綱)が申し述べられること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』69号「長尾弾正少弼殿 御返報」宛大館「晴光」副状【封紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 御返報 大館左衛門佐 晴光」】)。
同日、大館晴光が別紙の追伸を書き記し、追って申し上げること、私へも大鷹一連を上せ給わり、ひたすら祝着の極みであり、筆舌に尽くし難いこと、なお、(詳細は)神余隼人入道が申し述べられること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』70号「長尾弾正少弼殿 進之候」宛大館「晴光」書状【封紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 進之候 大館左衛門佐 晴光」】)。
同日、大館晴光の内衆である富森信盛が返状を書き記し、御札を拝読したこと、仰せの通り、故信州(長尾為景)とは格別に御意を得てきたこと、しかしながら、それ以後は無沙汰であったのは、不本意な思いであること、よって、(富森信盛が)青銅二百疋を拝領し、御懇志に極まり、畏れ多い思いであること、従って、(返礼として)弓懸二具を進上すること、(大館晴光からは)誠に御音信ばかりであること、なお、(詳細は)神余小次郎殿が申し入れられる旨を、(景虎の)御意を得たいこと、これらを恐れ畏んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』72号「長尾弾正少弼殿 まいる貴報」宛富森「信盛」書状【封紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 まいる貴報 富森左京亮 信盛」】)。
同日、富森信盛が、越後国長尾家の年寄中へ宛てた返状を書き記し、御官途の件を調えられたこと、何よりも珍重の思いであること、とりもなおさず、御礼の御申しもめでたいこと、委細のくだりは、神余小次郎殿が申し入れられる旨を、(景虎の)御意を得たいこと、これらを恐れ畏んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』71号「長尾弾正少弼殿 人々御中」宛富森「信盛」書状【封紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 人々御中 富森左京亮 信盛」】)。
26日、大覚寺門跡義俊が返状を書き記し、御官途の件を取り計ったこと、(将軍が)御内書を調えられたこと、近頃にない御面目の極みであり、珍重に思うこと、模様においては、神余小次郎が申し述べること、これらを畏んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』73号「長尾弾正少弼殿」宛大覚寺義俊書状【署名はなく、花押のみを据える】【封紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 (花押)」】)。
28日、大覚寺義俊の内衆である渡辺盛綱(右京亮)が返状を書き記し、御官途の件を、御門跡様が御精を入れられて調え、近頃になく、めでたい思いであること、委細は神余小次郎方が申し述べられること、これらを恐れ畏んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』74号「長尾弾正少弼殿 御宿所」宛渡辺「盛綱」書状)。
同日、渡辺盛綱が別紙の返状を書き記し、御門跡様へ御礼として、青銅千疋を御進上のこと、すこぶる御祝着であると、それを心得て申し入れる旨であること、従って、私(渡辺盛綱)へも青銅二百疋を下されたこと、過分至極の思いであること、なお、(詳細は)神余小次郎方が申し入れられること、これらを恐れ畏んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』75号「長尾弾正少弼殿 御返報」宛渡辺「盛綱」書状【封紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 御返報 渡辺右京亮 盛綱」】)。
同日、大覚寺義俊の内衆である津崎光勝(大蔵丞)が返状を書き記し、御官途の件については、御門跡様が御精を入れられて調え、近頃になく、めでたい思いであること、委細は神余小次郎方が申し入れられること、これらを恐れ畏んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』76号「長尾弾正少弼殿 御宿所」宛津崎「光勝」書状)。
同日、津崎光勝が別紙の返状を書き記し、御門跡様へ御礼として、青銅千疋を御進上のこと、御祝着であると、それを心得て申し入れる旨であること、従って、私(津崎光勝)へも青銅二百疋を送って下されたこと、過分の極みであり、筆舌に尽くし難い思いであること、それからまた、このたび神余方の長逗留に関しては、公私にわたる御取り込みにより、このようになってしまったこと、さらさら疎略に扱ったわけではこと、なお、(詳細は神余)小次郎方が申し入れられること、これらを恐れ畏んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』77号「長尾弾正少弼殿 御返報」宛津崎「光綱」書状【封紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 御宿所 津崎「大蔵丞光勝」】)。
いずれの書状も天文21年6月28日に神余父子が持ち帰る。
〔神余父子が帰路に就く〕
6月13日、管領細川晴元の側近である波々伯部宗徹が副状を書き記し、御音信として、神余方を差し上せられたこと、殊に大鷹と栗毛の馬一疋を御進上の旨を、書札をもって承ったにより、御披露に及んだこと、御祝着の旨を、(細川晴元が)御書を書き記されたこと、従って、堆朱の香合一合と堆朱の盆一枚を遣わされたこと、なお、その意を心得て申し届けるわけであること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』78号「長尾平三殿」宛波々伯部伯耆入道「宗徹」書状【封紙ウハ書「長尾平三殿 波々伯部伯耆入道 宗徹」】)。
同日、波々伯部宗徹が別紙の返状を書き記し、御状に預かり、誠に本望の極みであること、承り及んだにより、こちらから申し入れたいと思いながらも、遠路であるので、罷り過ぎてしまい不本意であること、今後においては、折に触れて申し承るつもりであるにより、大慶に思うこと、従って、御音信として、馬代三百疋を差し上せられたこと、祝着の極みであること、祝儀として太刀一腰を進上すること、委細は神余方が申し入れられるにより、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』79号 「長尾平三殿 御返報」宛波々伯部「宗徹」書状【封紙ウハ書「長尾平三殿 御返報 波々伯部伯耆入道 宗徹」】)。
14日、越前国朝倉家の同名衆である敦賀朝倉太郎左衛門入道宗滴(俗名は教景。越前国敦賀郡の金ヶ崎城を本拠とする)が、初信となる自筆の返状を書き記し、仰せの通り、これまでは申し交わしていなかったところ、御音問に預かって拝読し、何はともあれ本望であること、よって、大鷹一連と鳥屋を上せ給わったこと、御懇志のほどは、これまた祝着の極みであること、とりわけ、庵主(長尾為景)の御代には、格別に申し承ったこと、それ以後は無音となってしまい、本意ではなかったこと、今後は往時と変わらない通交を復活させたい心中であること、方々(宗滴側近)がここから申し届けるにより、筆を擱くこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』80号「謹上 長尾平三殿」宛朝倉「太郎左衛門入道宗滴」書状【封紙ウハ書「謹上 長尾平三殿 朝倉 太郎左衛門入道宗滴」】)。
28日、将軍足利義藤からの御内書以下を神余親子が携えて帰府したので、これより弾正少弼の官途名を称する。
◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』(上越市)
◆『新潟県史 資料編4 中世二』(新潟県)
◆『新潟県史 資料編5 中世三』(新潟県)
◆『新潟県立歴史博物館研究紀要 第9号』(新潟県立歴史博物館)
◆『越後入廣瀬村編年史 中世編』(入廣瀬村)
◆『上杉家御年譜 第24巻 御家中諸士略系譜(二)』(原書房)
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