越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎の年代記 【永禄10年3月~同年4月】

2012-11-30 22:28:03 | 上杉輝虎の年代記

永禄10年(1567)3月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【38歳】


7日、沼田衆の一員である小河可遊斎(もとは沼田の旧領主である沼田氏の親類衆。上・越国境の上野国利根郡の小河城を本拠とする)へ宛てて過書を発し、越国(越後国)から毎月十五疋分の荷物を受用のため、関所・渡し場の通行を保証するものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』553号「小河苛遊斎」宛上杉輝虎朱印状【印文「梅」】)。


この頃、甲州武田軍が信濃奥郡へ進んでいるとの知らせを受け、上野国金山城(新田郡新田荘)を攻めるのを断念し、越後衆の色部修理進勝長(外様衆)と荻原伊賀守(旗本部将)を下野国佐野領の唐沢山城(安蘇郡佐野荘)の在番衆に加えるなど、関東における拠点の防備を強化したうえで、帰国の途に就いた。


18日、甲州武田軍により、信・越国境の拠点のひとつである信濃国野尻城(水内郡芋河荘)を奪われたが、その日のうちに取り返した。


25日、昨年末に相州北条・甲州武田陣営に寝返った父の北条丹後守高広と決別し、上野国棚下寄居(勢多郡)に拠って上野国厩橋城と対向している北条弥五郎景広へ宛てて書状を発し、一札をもって申し遣わすこと、よって、吾分(北条景広)が在陣するべきこと、あらかじめ申し遣わした通り、奮励するのが肝心であること、これらを謹んで申し伝えた。さらに追伸として、(某所からの知らせによれば)たな下の寄居に向かって厩橋衆が攻め懸けてくるとのこと、(景広においては)家中を励まされて、(厩橋衆との迎撃に)奮励するのが肝心であること、以上、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』978号「北条弥五郎殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a3】)。

26日、前日に発した書状が棚下寄居へ届くより先に、その棚下から現状報告が寄せられたので、北条弥五郎景広へ宛てて返状を発し、(北条景広から)今26日に到来した注進によれば、丹後守(北条高広)が(棚下寄居へ)攻め懸けてきたところ、その地(棚下)から軍勢を出し、迎え撃って打ち破ったので、敵は行列を乱して引き退いたとのこと、このうえに至っては、ますます奮励するのが適当であること、されば、棚下の寄居は困難な局面に立たされているものか、(棚下は)簡素な小屋であるにより、後退しても(沼田城か)構わないこと、申し遣わすまでもないとはいえ、其元(棚下表)の堅固な防備が肝心であること、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』979号「北条弥五郎殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a3】)。


※ 両文書を、諸史料集は年次未詳としているが、栗原修氏の論集である『戦国期上杉・武田氏の上野支配 戦国史研究叢書6』(岩田書院)の「第二編 上杉氏支配の展開と部将の自立化 第二章 厩橋北条氏の存在形態 付論 厩橋北条氏の家督交替をめぐって」における年次比定に従い、当年の発給文書として引用した。



この間、敵対関係にある甲州武田信玄(徳栄軒)は、3月6日、信濃国奥郡の陣中から、上野国白井城(群馬郡)を自落させた信州先方衆の真田一徳斎幸隆(弾正忠幸綱。上野国吾妻郡の岩櫃城の城代を任されている)・甘利郷左衛門尉信康(甲州武田家の御譜代家老衆)・金丸筑前守(実名は虎義か。同前)へ宛てて書状を発し、一徳斎(真田幸隆)の計策ゆえ、白井が日を経ずして落居し、大慶であること、これからの(白井統治)の方策などは、三日のうちに使者をもって申し越すこと、それまでの間は、(春日弾正忠虎綱を)箕輪城(上野国群馬郡)に在番させているにより、万事を春日弾正忠(御譜代家老衆。信濃国埴科郡の海津城の城代を任されている)と相談し合うのが適当であること、また、長尾(上杉)輝虎の帰国が確実であれば、その翌日に出馬し、西上野統治の方策の下知を加えること、なお、沼田の是非を明らかにし、急速な注進を待ち入ること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』1054号「一徳斎・甘利郷左衛門尉殿・金丸筑前守」宛武田「信玄」書状)。

8日、真田一徳斎幸隆・同源太左衛門尉信綱父子へ宛てて書状を発し、思いも寄らない幸運により、白井が落居し、本望満足であるのは(真田父子も)同意であろうこと、このうえは(信玄は)箕輪へ移り、(白井城の)普請ならびに知行などの配当を下知するつもりであること、なお、沼田の模様を探り、早飛脚をもっての注進を待ち入ること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』1056号「一徳斎・真田源太左衛門尉殿」宛武田「信玄」書状)。


このように、信濃国奥郡に在陣している武田信玄は、輝虎帰陣の是非を見極めているなか、18日に信濃国野尻城を奪取すると、その後、奥州会津(会津郡門田荘黒川)の蘆名家との盟約に基づいて、越後国に乱入して信・越国境の郷村に火を放ったが、会津衆の連動する気配はなかったことから、一部の軍勢を信・越国境に留めたうえで、上野国西部へと向かっている。ただし、輝虎が野尻城をその日のうちに奪還しているので、実際に武田軍が越後国に乱入して国境付近の郷村に火を放ったのかは定かではない。



永禄10年(1567)4月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【38歳】


朔日、年少の当主である上田長尾喜平次顕景(輝虎の甥にあたる。越後国魚沼郡の坂戸城を本拠とする)に代わって上田衆を統率する栗林次郎左衛門尉房頼(これ以前は大井田藤七郎と長尾伊勢守と共に上田衆を率いていた)へ宛てて書状を発し、猿京(上・越国境の上野国吾妻郡)近辺の(地衆の)証人共を、倉内(上野国沼田城)からその地(越後国坂戸城)へ差し越すように指示したところ、(上田衆が)依然として受け取っていないのは、愚かな事態であること、早々に受け取って、用心を堅く申し付け、其元(坂戸城)に差し置くのが専一であること、これらを謹んで申し伝えた。さらに追伸として、(越後と倉内の往還で)本庄新左衛門尉(本庄美作入道宗緩の世子。越後国古志郡の栃尾城を本拠とする旗本部将)が不慮の死を遂げたのは、どうしようもないこと、これについて、浅貝(上・越国境の越後国魚沼郡塩沢)の地に寄居を築き、倉内(沼田城)との往復は(上田衆)自身が用いるものであるから、つまりは吾分(栗林房頼)の手並みに懸かっていること、このような(苦境の)時期であるので、それに精励するのが肝心であること、以上、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』506号「栗林次郎左衛門尉とのへ」宛上杉「輝虎」書状【花押a3】)。


この命令は撤回されたようで、浅貝寄居の構築が実現したのは元亀2年である。


※ 当文書を、諸史料集は永禄9年に仮定しているが、栗林房頼だけで上田衆を率いるようになるのは、同年の7月以降である(『上越市史 上杉氏文書集一』457・458・465号)ことと、やはりその年の冬に、関東代官を任されている北条高広が相州北条・甲州武田陣営に寝返ってしまい、輝虎が上・越国境に寄居を構築する考えに至ったであろうことからして、当年に発給された文書となろう。


3日、下野国衆の佐野氏の元家臣で、輝虎旗本に転身した蓼沼藤五郎泰重(弟に蓼沼藤七郎友重がいる)へ朱印状を与え、(越後国頸城郡)西浜のうち、寺島村を宛行うこと、本軍役の鑓五丁は、このうち四丁を用捨すること、軍役、鑓一丁、糸毛具足、小旗一本、金色の前後(馬鎧)、以上、これらを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』555号「蓼沼藤五郎殿」宛上杉輝虎朱印状写)。


6日、上野国沼田城(利根郡沼田荘)の城衆である松本石見守景繁(旗本部将。これ以前に相州北条軍から解放された)・小中大蔵丞(実名は光清か。旗本部将)・新発田右衛門大夫(実名は綱成か。外様衆の新発田尾張守忠敦の一族)へ宛てて書状を発し、その地(沼田城)は人数が不足しているゆえ、備方に困っている様子であると、そう聞こえていること、上田衆を総動員して差し越すこと、各々で相談し、堅固の防備が肝心であること、何があろうとも奮励し、丹後守(北条丹後守高広。相州北条家の他国衆となった)の陣所へ夜懸けなりとも戦陣に及び、彼の陣所の動揺を誘い、(敵の)人数を十人も二十人も討ち取れば、今後は怖気付いて、むやみに進動は致してはこないのだから、上田の人数と相談して、その奮戦が専一であること、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』554号「松本石見守殿・小中大蔵少輔(丞)殿・新発田右衛門大夫殿」宛上杉「輝虎」書状写)。


7日、沼田城衆の発智右馬允長芳(もとは上田長尾氏の与力)に対して、上野国沼田領から同桐生領(山田郡)への要路に当たる根利(利根郡)の地に関所の設置を指示しておいたところ、根利近隣の阿久沢の領主である阿久沢左馬助(上野国勢多郡の深沢城を本拠とする上野国衆)が関所の設置に反発しているとの報告を受け、取次の山吉孫次郎豊守(輝虎の最側近)が、発智右馬允長芳へ宛てて返状を発し、(輝虎が発智長芳へ)根利の地に関所(の設置)を申し付けられたところに、阿久沢方から不遜な返答を寄越してきたらしく、ただ今の時分(苦境)を見越して、そのような態度をとっているのは、(輝虎は)口惜しく思われていること、そうではあっても、岩下(吾妻郡)・白井・厩橋口(ともに群馬郡)に(輝虎が)御手を出す余裕はないといい、根利を通すのは東方を往復のためといい、殊に由刑(相州北条陣営に属する由良刑部大輔成繁。上野国金山城を本拠とする上野国衆)が前々の御扱い(輝虎の支配)を妨げたので、いずれにしても、些細な干渉でも破られてしまっては、たちまちに(輝虎の)御功績も無に帰してしまうのではないかと、ここをもって今後も道理を弁えて、御思慮されるのが適当であると、 (輝虎は)仰せになられていること、ひとえに根利などに支障が生じれば、重ねて御注進されるべきこと、万が一にも彼の口が破綻でもすれば、貴所(発智長芳)の御表裏(利敵行為)を疑わざるを得ないとの(輝虎の)御内意であること、なお、(詳細は)彼の(使者の)口上のうちにあること、これらを恐れ謹んで申しを伝えている。さらに追伸として、重ねて阿久沢の所から書中を寄越されたならば、この書状を土台にして返事をされるべきこと、以上、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』556号「発右 御報」宛「山孫 豊守」書状)。


3月の甲州武田軍に続き、会津衆が越後国菅名荘(蒲原郡)へ乱入し、雷・神洞の両城が奪取されたのを受け、上野国沼田城へ増派するつもりでいた上田衆をはじめとする軍勢を菅名荘へ急派して、雷・神洞両城を奪還させると、蘆名止々斎(盛氏)が詫びを入れてきたので、28日、上田衆を統率する栗林次郎左衛門尉房頼へ宛てて書状を発し、このたび菅名口の凶徒を退治させるために差し遣わしたところ、労を惜しまず奮励したのは感心の極みであること、これにより、早々に(坂戸城)へ差し帰り、人馬を休ませるべきこと、なお、子細を各所から申し送ること、これらを畏んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』722号「栗林次郎左衛門尉とのへ」宛上杉「輝虎」書状写【花押a3】)。


※ 当文書を、諸史料集は永禄12年に仮定しているが、輝虎期において、敵が越後国菅名地域に乱入したのは、永禄10年であることから、当年の発給文書として引用した。


この間、敵対関係にある相州北条氏康(相模守)は、4月朔日、他国衆の富岡主税助(上野国邑楽郡の小泉城を本拠とする上野国衆)へ宛てて書状を発し、(氏康が)湯治について、音信として一札に預かったこと、蝋燭一束と鯉二十折が到来し、その心遣いに感謝していること、とりわけ、白井(上野国群馬郡の白井城)が自落し、ますます景虎(輝虎)は手を失ったこと、(富岡は)何としても佐野(下野国安蘇郡の唐沢山城)が自落するように、精励するのが肝心であること、なお、(詳細は)岩本太郎左衛門尉(定次。氏康の側近。御馬廻衆)が申し届けること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』940号 北条「氏康」書状)。


10日、鎌倉公方足利義氏が、下総国関宿の簗田中務大輔晴助(洗心斎道忠)・同八郎持助父子(下総国葛飾郡の関宿城を本拠とする)へ宛てて契状を発し、一、このたび(簗田父子が相州北条)氏政に属して、進退についての詫言を申し上げたこと、(足利義氏は)氏政の意見に任せられ、(簗田父子を)御赦免とされたこと、このうえ忠信を励むに至るならば、父子に対せられ、永代にわたって上意は御懇切に接すること、この補足として、父子が参上した折には、そのまま留め置かれたりはせず、今より以後は、(簗田家の)家中・親類を引き離したりもしないこと、一、(簗田父子は)関宿の地を返上するべきところ、それを拒否したこと、そうではあっても、氏政が強いて意見するからには、御処置はせずに(関宿を父子に)任され、御落着したこと、この補足として、関宿・水海両地を御所望はしないこと、一、氏政の助言に任せ、相馬要害、相馬一跡ならびに本領、同じく新所の十郷は、昨年に仰せ定められた通りの御落着で異存はないこと、この補足として、(義氏の)御座所は何処であろうとも、氏政と談合致し、堅固の奔走するべきであること、以上、右については、氏政の意見に任せ、条々が御落着したこと、偽りのないところは、 八幡大菩薩が御覧になっていること、このうえは、忠信を極めるべきであるので、前々の通りに奔走するのが肝心であること、これらを謹んで申し伝えている(『戦国遺文 古河公方編』898号「簗田中務太輔殿・同八郎殿」宛足利「義氏」契状)。


17日、相州北条氏政の兄弟衆である大石源三氏照(鎌倉公方足利義氏を補佐する)が、簗田中務入道道忠・同八郎持助父子へ起請文を渡し、起請文、一、公方様が(簗田父子に対し)異心を挟まないところを見届けたこと、一、氏康・氏政は(簗田父子に対し)ただ今は勿論、行く末も別心なく懇切に接すると言われていたのを、見届けたこと、一、万が一、 公方様と(氏康・)氏政父子が表裏の様子を見せるに至ったならば、(簗田)中書御父子の御進退は、力の及ぶ限り氏照が秩序ある状態に調えること、以上、右の条々を偽るにおいては、 諸神の御罰を蒙るものであること、よって、起請文の通りであること、これらの条々を誓約している(『戦国遺文 後北条氏編二』1015号「中務入道殿・八郎殿 御宿所」宛大石「源三氏照」起請文)。

18日、相州北条氏政は、簗田中務大輔入道道忠へ宛てて起請文を発し、起請文、一、世上が(相州北条家)存意の通りに本意を達したとしても、晴助・持助に対し、ますます異心を挟まず、懇切に接すること、一、(簗田父子を悪く言う)佞人ががいて、(簗田父子に)申し立てる反駁があれば、何度でも糊付けの書状をもって尋ねるつもりであること、一、相馬一跡ならびに要害が(簗田父子の)本意を達するように努めること、もしまた、相馬(治胤)がことさらに、 御所様(足利義氏)へ対し申し上げ、詫言してきたならば、氏政は力の及ぶ限り晴助の御為に適切な奔走をするつもりであること、一、万が一にも晴助父子が大敵を受けられ、難儀に至るならば、見放したりはしないこと、この補足として、味方中のうちで抗争が起こったとしても、糺明に及んだうえで、非分のある方を打ち捨てること、一、其方(簗田父子)の家中・親類・悴者を引き離したりはしないこと、一、晴助・持助親子のうち、どちらであっても、(足利義氏の)御膝下ならびに相府小田原へ参府したとしても、留め置いたりはしないこと、右の条々を、もしも偽るにおいては、諸神の御罰を蒙るものであること、よって、起請文の通りであること、これらの条々を誓約している(『戦国遺文 後北条氏編二』1016号「簗田中務大輔入道殿」宛北条「氏政」起請文写)。

同日、相州北条氏政は、簗田八郎持助へ宛てて起請文を発し、起請文、一、世上が(相州北条父子の)存分の通りに本意を達したとしても、持助・晴助に対し、ますます異心を挟まず、懇切に接すること、一、佞人がいて、申し立てる反駁があれば、何度でも糊付けの書状をもって尋ねるつもりであること、一、万が一にも持助父子が大敵を受けられ、難儀に至るならば、見放したりはしないこと、この補足として、味方中のうちで抗争が起こったとしても、糺明に及んだうえで、非分のある方を打ち捨てること、一、(簗田父子の)本知行ならびにこのたび拝領の十郷を、永代にわたって違乱しないこと、この補足として、境目の相論が起こったならば、双方の代官を小田原へ召し寄せ、糺明を遂げること、一、其方(簗田父子)の家中・親類・悴者を引き離したりはしないこと、一、(下総国葛飾郡)関宿の地・水海の地を永代にわたって(相州北条家が)欲したりはしないこと、一、持助・晴助親子のうち、どちらであっても、(足利義氏の)御膝下ならびに相府小田原へ参府したとしても、留め置いたりはしないこと、右の条々を、もしも偽るにおいては、諸神の御罰を蒙るものであること、よって、起請文の通りであること、これらの条々を誓約している(『戦国遺文 後北条氏編』1017号「簗田八郎殿」宛北条「氏政」起請文写)。



同じく甲州武田信玄(徳栄軒)は、上野国箕輪城(群馬郡)に着陣したところ、昨冬に相州北条・甲州武田陣営の寝返った厩橋北条丹後守高広が表敬のために使者を寄越してきたので、4月10日、取次の甘利左衛門尉信忠(御譜代家老衆)が、北条丹後守高広へ宛てて書状を発し、(信玄が)当地(箕輪城)へ着城したについて、重ねて御使いが到来したので披露に及んだところに、祝着であると、(信玄は)とりもなおさず、(北条高広の使者と)対面を遂げられたこと、なお、(詳細は)彼の(使者の)口上を用いるので、この紙面を省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』1065号「北丹 御報」宛「甘左 信忠」書状)。



〔甲・会による越後国計略〕

奥州会津(会津郡門田荘黒川)の蘆名止々斎(修理大夫盛氏)は、16日、越後国菅名荘へ侵攻した外様衆の小田切弾正忠(会津領越後国蒲原郡小川荘の石間城を本拠とする外様衆)へ宛てて書状(朱印状)を発し、其元(菅名荘)での在陣は辛労の極みであろうこと、よって、昨日は草調儀を仕掛けたとのこと、内々に心配していたところ、少々の勝利を得たとのこと、近頃では祝着であること、家中に手負いの者なども出ているのではないかと思われ、よくよく養生するのが適切であること、下々の者まで辛労をいたわりたいこと、その口(菅名)へ近日中に戦陣を催すとのこと、(止々斎が)人数を差し向けるので、その時分に申し届けること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』603号「小田切弾正忠殿」宛「止々斎」書状)。


蘆名軍の本隊は、越後国菅名荘に乱入した両小田切とは一日で連絡が付く場所まで進んでいるが、越後国へ侵攻することはなかったであろう。


※ 当文書を、諸史料集は永禄11年に置いているが、4月28日付輝虎書状(『上越市史 上杉氏文書集一』722号)と同様、会津衆の越後乱入は同10年であることから、当年の発給文書として引用した。また、当文書における草調儀の箇所は、史料集によって翻刻が「草調儀」と「覃調儀」に分かれており、当初は後者が正しいと考えて、調儀に及んだ、と解していたところ、SNS上でお世話になっている三浦介さんが2022年3月に刊行された『越後文書宝翰集 三浦和田氏文書Ⅲ 河村文書 小田切文書』(新潟歴史博物館編)に収録されている当文書の原本画像を確認して下さり、「草」の字であることが判明したので、前者に改めた。同書によると、草調儀の意味は、本格的な合戦である「動(はたらき)」の前におこなわれる小競り合いか、敵地に入った忍びによって実行される作戦の総称であり、本文書の場合は前者の意であるとのこと。


越後国への乱入を企てる甲州武田信玄は、17日、会津蘆名家に従属する国衆の山内信濃守へ宛てて返状を発し、珍札を披読し、快然の極み以外にはないこと、よって、関東表は平穏無事であるにより、だしぬけに越国(越後)へ手立てに及ぶつもりであること、この趣(甲・会両軍の連動)を先頃に黒川(蘆名家)へも申し交わしたところ、(蘆名盛氏の)同意に預かったこと、この好機であるので、(山内信濃守も)近辺の衆を催し、手合わせの働きが肝心であること、なお、これより以後も切れ目なく通交したいこと、詳しくは(使者の)城 対馬守(直参衆)が申し述べること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』1259号「山内信濃守殿」宛武田「信玄」書状写)。


甲州武田信玄は、会津の蘆名止々斎の許から使者が到来すると、20日、蘆名家側の取次である鵜浦左衛門入道(九徳斎か。譜代衆)宛てて返状を発し、小田切(弾正忠)が越国(越後国)に向かって手立てに及び、敵城(神洞・雷)を攻め落として堅持しているとのこと、これにより、御息男(鵜浦入道の子)ならびに金上(兵庫頭盛満。金上氏は蘆名氏から分かれ、その宿老となった。会津領越後国蒲原郡の津川城を本拠とする)・松本(右京亮。宿老の松本図書助氏輔とは同族で、止々斎の側近である)の両手が出陣したそうであり、本望満足であること、(信玄は)去る頃(3月18日)に野尻(信濃国野尻城)を落居させ、城主以下、数輩を討ち取り、越国(越後国)に向かって乱入し、所々の郷村を打ち砕き、とりもなおさず、越・信の境目に人数を差し置き、上州へ越山し、諸城の普請を申し付けたところ、その筋(越後国菅名表)がすでにこのようであるからには、(信玄も)重ねて越国へ戦陣を催すつもりであること、なお、盛氏(蘆名止々斎)は猶予なき御出陣を願うところであること、詳細は彼の使者が申し述べること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』1260号「鵜浦左衛門入道殿」宛武田「信玄」書状写)。

28日、信玄側近の山県三郎兵衛尉昌景(御譜代家老衆)が、鵜浦左衛門入道へ宛てて副状を発し、御状の通り、小田切方が越国に向かって手立てに及ばれたところ、敵城の雷を乗っ取り、堅固に保持しているそうで、これにより、御息男ならびに金兵・松右が御出陣したそうであり、心地好い思いであること、よって、去る月18日に野尻を落居させ、城主以下を数多討ち取り、越に向かって乱入し、所々の郷村に火を放ち、その口の手合わせを待たれていたところに、遠路ゆえか、それは聞こえてこなかったにより、信・越境目に人衆を差し置き、上州へ越山し、諸城の普請を申し付けられたところ、その筋はすでにこのようであるからには、(信玄も)重ねて越府に向かって戦陣を催されること、されば、盛氏(蘆名止々斎)も御猶予なき御出張が肝心であると思われること、詳細は(信玄が)直書で顕されるので、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』1263号「鵜浦左衛門入道殿 御報」宛「山県三郎兵衛尉昌景」副状写)。


このあと武田信玄は、上野国惣社城(群馬郡)の攻略を果たし、惣社長尾能登守(実名は景総あるいは景綱か)を没落させている。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 古河公方編』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第二巻』(東京堂出版)

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