越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎の年代記 【永禄10年7月~同年9月】

2012-12-28 23:12:46 | 上杉輝虎の年代記

永禄10年(1567)7月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【38歳】


5日、この5月に下野国佐野領の唐沢山城に攻め寄せてきた相州北条氏政を、越後衆の在番衆を中心とした佐野城衆が撃退した際に、戦功を挙げた佐野地衆の鍋山衆の大蘆雅楽助へ宛てた感状を認め、このたび氏政がその地へ攻め懸かってきたところ、吾分共が奮励したので、敵は退散したとのこと、今にはじまったことではないとはいえ、見事な戦いぶりは類い稀であったこと、ますます皆々が示し合わされ、駆け回るのが肝心であること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』993号「大芦雅楽助殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a3】
)。


当文書を、諸史料集は年次未詳としているが、永禄10年6月4日付けで輝虎が佐野衆・佐野地衆へ宛てた感状群(『上越市史 上杉氏文書集一』562~566号)との兼ね合いからして、当年に発給された文書となろう。



この間、越前国金ヶ崎(敦賀郡)に滞在中の左馬頭足利義秋は、輝虎に対して、速やかな参洛と、兵糧の援助を要請するために、上使を越府へ下している。

朔日、左馬頭足利義秋が、越後国上杉家の年寄衆である直江大和守政綱と河田豊前守長親前のそれぞれへ宛てて御内書を認め、(足利義秋の)出張の実現について、智光院(頼慶。輝虎の使僧)を(義秋の許に)附属して置き、奔走させたのは、感悦であること、輝虎の参洛の実現について、異存がないように、意見するのが肝心であること、(相州)北条かたへも和睦の件を申し遣わすので、(越・相両国が)一つにまとまるように、重ねて申し越すこと、なお、(飯河肥後守)信堅・(杉原入道)祐阿が申し届けること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』570号「直江大和守とのへ」宛足利義昭御内書、571号「河田豊前守とのへ」宛足利義昭御内書写【署名はなく、花押のみを据える】)。

同日、左馬頭足利義秋が、智光院頼慶へ宛てて御内書を認め、隣国へ出勢するつもりでいたところ、諸侯も出勢すると、言上してきたこと、されば、まずはすぐにでも手立てに及びたいこと、兵粮の援助を、輝虎かたへ申し遣わすのは、無理であるのかどうか、参洛するのが専要であると(輝虎へ)申し下したところに、またこのように(兵粮の援助を)申し遣わすのは、どうかと思われたこと、(輝虎は)思量して、内々に(義秋へ返事を)申し越すべきこと、なお、(杉原)祐阿が申し届けること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』573号「智光院」宛足利義昭御内書【署名はなく、花押のみを据える】【端見返しウハ書「智光院」】)。

同日、左馬頭足利義秋の随員である聖護院門跡道澄(関白近衛前久の弟。この2月に客死した大覚寺義俊に替わる人物)が書状を認め、智光院(頼慶)を、長々と(義秋の許に)付属して置かれ、様々に施された御懇切は、敵味方から優れた評価を得て、諸国に知れ渡っており、御満足そのものであること、(取次の大役を)堅く仰せ付けられたにより、いっそう奔走致すので、御遠慮なく、何事につけ仰せ聞かせてほしいこと、(輝虎を)最も奇特と思われているわけであり、(こうして輝虎へ)御内書を発せられたこと、それについて、三好(三好三人衆)と松永(久秀)の抗争は、ますます見境なく激化しているにより、御出勢を催すのは、適当な時節とはいえ、諸軍勢の兵糧がまったく足りないので、この折に御進上されれば、(敵国の)山深くに身を置かれ、(輝虎の)御参陣を待たれるつもりであり、(輝虎が参陣すれば、諸国が義秋の)御本意に属するのは、思いのままであること、(義秋は輝虎と)格別な御入魂を結び、頼みにしたいと思われていること、なお、頼慶(智光院)へ条々を申し入れたので、(これ以上は)詳しく書かないこと、これらを畏んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』569号「上杉弾正少弼殿」宛聖護院道澄書状【署名はなく、花押のみを据える】)。

同日、飯河信堅が、直江大和守政綱へ宛てて副状を認め、 (義秋の)御出張について、重ねて御内書を発せられたこと、よって、隣国へ(義秋が出張を)催されるところ、格別に濃・尾・三河そのほかの諸侯が出勢すると、言上してきたこと、そうではあっても、輝虎が御参洛されないにおいては、天下の静謐は成し難いので、(輝虎の参洛に)支障がないように調えられるのが肝心であること、次いで、相州(北条氏)との御和平の件を、これまた、仰せ下されること、未だに一つにまとまらないにより、引き続き仰せ越されること、いずれも(直江政綱が)御奔走されるにおいては、ひとえに御忠節であると、(義秋は)仰せになっていること、よって、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』572号「直江大和守殿」宛飯河「信堅」副状)。

同日、杉原祐阿が、直江大和守政綱・河田豊前守長親・神余隼人佑へ宛てて副状を認め、追って申し上げること、近国の諸侯から出勢するべき旨を言上にて、(義秋は)近日中に御手立てに及ばれること、そうではあっても、(義秋は)御兵糧以下を調え難いので、(輝虎が)御進上されるようにはできないものか、(輝虎の)御参洛の実現が御専要であると仰せられ、また、御兵糧の要請は、どうかと思われたが、あまりにも調達できないので、このように(輝虎の)御意を得られたいこと、(三人が)力の及ぶ限り奔走されるのが肝心であること、なお、(詳細は)智光院(頼慶)が申し達せられるので、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』576号「直江大和守殿・河田豊前守殿・神余隼人正(佑)殿」宛杉原「祐阿」書状写)。



永禄10年(1567)8月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【38歳】


7日、通交の途絶えた佐竹次郎義重(常陸国久慈郡の太田城を本拠とする)・宇都宮弥三郎広綱(下野国河内郡の宇都宮城を本拠とする)をはじめ、かっての味方中との関係改善を図るため、佐竹氏の客将である太田美濃入道道誉(三楽斎。俗名は資正。佐竹氏から常陸国新治郡の片野城を任されている)へ宛てて書状を発し、其元(佐竹)の現状は計り難いとはいえ、使僧をもって申し入れること、佐竹の御事は、代々の交誼に任せ、近年はほかにはないほどに申し談じてきたところ、関東の破綻を狙い、調子を合わせた徒輩がほとんどであり、かえって馬鹿げた結果となってしまい、無念で、どうしようもない次第であること、これから巻き返し、互いにあらゆる差し障りを捨てて、一筋に申し合わせ、関左(関東)における陣営の再興を念願するのみであること、幸いにも宮(宇都宮)については、(佐竹)義重とは骨肉の御間(宇都宮広綱の妻は義重の妹)であるので、つまるところ、これより以後は、佐野の地から東については一円に両家(佐竹・宇都宮)にゆだね、あらゆる処置などを任せ入ること、そうであるからには、力添えあり、よって、輝虎が坂東半国に及び補佐すれば、彼我の優れた評判は、何事かするべきであろうか、内々にこれらの趣を、直接申し述べるべきところ、(佐竹の)様子を知らないので、まずは其方(太田道誉)まで申し越したこと、とは言っても、佐(佐竹)・宮(宇都宮)の家中衆もこのたびの成り行きであるので、望み通りに勇気づけて、このたび手合わせの取り成しを頼み入りたいこと、遠境で(両家の事情には)不案内であるので、これも其方(太田)の指図次第で、その旨(佐竹の様子)を知りたいこと、されば、多嶋(武蔵国衆の広田・木戸一族をさすか)についても、諸方で(従っていないのは)一ヶ所だけしかないと、(相州北条)氏政が、彼の在所に攻め懸かったところ、一身に引き受け、万軍にあまつさえ勝利したわけであり、古今無双の奮戦は、明白であること、これからも唯一無二の忠信を励むと、こうしたなかであっても、繰り返し言って寄越したこと、万が一にも、佐・宮が苦境に陥れば、輝虎が救援に駆け付けるからには、なおもって(取り成しに)精励するべきこと、従って、越山の挙行を、急ぐべきところ、留守中の防備を調えなければならなかったので、信州内の飯山(水内郡)の地に地利(飯山城の近辺に新城を構築したのか、それとも同城に郭を増築したのか)を築かせていたこと、このように取り込んでいたゆえに遅延していたが、ほぼ普請以下はでき上がったので、かならず今月中に出馬するつもりであること、沼田(上野国利根郡沼田荘)と佐野(下野国安蘇郡)の間に直通路があって往還できると聞き及んだにより、この間に案内をもって見分させたところ、人夫がわずかでの造作をもって、人馬の往来が自由になるので、これはひとえに天啓のところであり、満足そのものであること、倉内(沼田城)に着城し、諸軍が揃うまでの間に、彼の山中に軍道を作らせ、このたび越山し、沼田から佐野への直行に努めること、たとえ当秋の戦陣で大功を一切収められなかったとしても、時節を伺わずに発向するからには、いずれの地においても決着をつけるのは眼前であること、まして両家の御同心を得られるにおいては、当秋中に東方の味方中(の再編)も思いのままであること、とりわけ、佐野の地の処置は、おそらくそれは聞こえているであろうこと、佐(佐野小太郎昌綱)の息男の虎房丸については、先年に証人として差し出すも、何度も見捨ていたとはいえ、輝虎は慈悲の余情をもって、そのつど(虎房丸)の処分を見送り、殊に彼の家(佐野)が以前のように下知するについて、譜代も外様も皆々が帰覆し、日を追うごとに(佐野の)陣容は調っていること、きっと(佐竹・宇都宮も)聞き及ばれて、悦喜しているであろうこと、なお、案内は(彼の使僧)口上のうちにあるのので、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』579号「太田美濃守殿」宛上杉「輝虎」書状写)。

24日、越府の蔵田五郎左衛門尉へ宛てて返状を発し、行き届いた音問が寄せられたので、喜悦であること、府内・春日(春日山城の城下町)の防火に油断があってはならず、その心懸けが専一であること、(春日山城の)大門・大手門のいずれも(油断が無いように責任者に)しっかりと申し付けるべきこと、要害の普請以下も、これまた絶対に油断があってはならないこと、当口(信濃国川中嶋陣)の様子については、晴信(甲州武田信玄)は塩崎(更級郡)まで出張してくるも、攻勢に出てくる様子もなく、無駄に時日を送っていること、このうえなお、大した事態は起こらないであろうこと、敵の挙動は口ほどにもないこと、安心してほしいこと、詳細を各々(留守衆)にも申し遣わすこと、これらを謹んで申し伝えた。さらに追伸として、門番以下に任務をしっかりと申し付け、(留守将の)新発田尾張守(忠敦。外様衆。越後国蒲原郡の新発田城を本拠とする)の小者が門番を務める際にも、緩怠のないようによくよく言い聞かせるのが適当であること、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』431号「蔵田五郎左衛門尉宛」宛上杉「輝虎」書状【花押d】)。



この間、敵対関係にある甲州武田信玄(徳栄軒)は、越後国上杉氏の陣営の動向に注意を払い、8月7日、信・越国境の信濃国野沢の湯要害(水内郡)に拠る信濃先方衆の市川新六郎信房へ宛てて覚書(朱印状)を発し、一、城内の昼夜の警戒と修繕等を怠ってはならないこと、一、地衆をみだりに入城させてはならないこと、この補足として、往還の人改めについて、一、地衆に対して非分狼藉を働いてはならないこと、一、越国(越後国)の模様について、念入りに情報収集して逐一報告するべきこと、相原庄左衛門尉の替わりとして、天河兵部丞を在府させるべきこと、この補足として、相原が帰着した上で、兵部丞に全ての事柄を相談するべきこと、これらの条々を申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』1098号「市川新六郎殿」宛武田家朱印状写)。

7日から8日にかけて、甲・信・西上野三ヶ国の諸卒から起請文を徴収し、一、信玄に対して逆心謀反を引き起こさないこと、一、長尾輝虎を始めとする敵方に如何なる功利をもって誘引されたとしても同意しないこと、一、三ヶ国の諸卒が悉く逆心を引き起こしたとしても、自分だけは信玄に忠義を尽くすこと、これらを誓約させている(『戦国遺文 武田氏編二』1099~1186号〔生島足島神社〕起請文)。


同じく相州北条氏政(左京大夫)は、房州里見領に侵攻するも、8月23日、上総国三船山(望陀郡富津)の地で房州里見軍に大敗を喫し、岩付太田源五郎氏資(大膳大夫。相州北条氏康の娘婿。武州岩付城主)らを失っている(『戦国遺文 後北条氏編二』1035~1037 ●『千葉県史 資料編 中世5』735号抄 年代記配合抄)。



永禄10年(1567)9月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【38歳】


18日、信・越国境の越後国祢知城(頸城郡)の城衆である斎藤下野守朝信(譜代衆。越後国刈羽郡の赤田城を本拠とする)・赤見六郎左衛門尉(信濃衆)・小野主計助(旗本衆)へ宛てて書状を発し、(祢知城から)信州口へ目付を差し越し、敵(甲州武田軍の)陣所の陣容を見届けさせ、取り急ぎ注進してくれたので、祝着であること、(その注進の内容は)爰許(輝虎本陣)から遣わした目付が入手した内容と一致していること、関東から寄せられた情報でも、(織田信長が)尾州と濃州を併合し、甲府へ戦陣を催されると、彼の口は激しく動揺しているそうであること、おそらく本当ではないかと考えていること、引き続き目付をしっかりと張り付け、甲・信の様子ならびに越中口の事情について、こまめに注進するのが専一であること、申すまでもないとはいえ、その地の維持管理を徹底するべきこと、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』474号「斎藤下野守殿・赤見六郎左衛門尉殿・小野主計助殿」宛上杉「輝虎」書状【花押d】)。


こののち帰府した。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『千葉県史 資料編 中世5 県外文書2 記録典籍』(千葉県)

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