越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(旱虎)の年代記 【永禄12年6月】

2013-07-29 11:39:29 | 上杉輝虎の年代記

永禄12年(1569)6月 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)【40歳】


2日、先月に誓詞を受け取るために来越した相州北条家の使僧である天用院へ宛てて書状を発し、先頃は遠路を越されたところ、要務に取り紛れていたゆえ、懇親できなかったこと、意外であること、ついては(盟約の)条項を、各々をもって(相州北条氏康・同氏政父子)へ申し渡したこと、速やかに取りまとめるように、父子へ働き掛けるのが肝心であること、そしてまた、(父子の誓詞を受け取りに相府へ向かった使僧の)広泰寺(昌派)の指南を任せ入ること、なお、後音を期していること、これらを恐れ敬って申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』752号「天用院」宛上杉「輝虎」書状写)。

7日、甥である上田長尾顕景(喜平次。越後国魚沼郡の坂戸城を本拠とする)が、上田衆の下平右近允殿と佐藤縫殿助のそれぞれに感状を与え、本庄村上の地(越後国瀬波(岩船)郡の村上)において、去る正月9日、夜中に敵が攻め懸けてきたところに出くわして戦い、類い稀な奮闘に及び、誠に殊勲の極みであること、今後ますます武功を励むのが専一であること、これらを謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』753号「下平右近亮(允)殿」宛長尾「顕景」感状写、754号「佐藤縫殿助殿」宛長尾「顕景」感状写)。



同盟関係にある相州北条氏康・同氏政父子とその一族から、越・相一和締結への祝意が15日以降にまとめて発せられる。

6月9日、相州北条氏政(左京大夫)が返状を認め、芳翰を披読し、本望であること、殊に血判を据えた誓詞を給わったこと、誠に大慶であること、氏政父子においても、身血を染めた誓詞を、広泰寺に手渡すこと、委細は来信の時を期していること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』756号「山内殿」宛北条「氏政」書状)。

同日、相州北条氏康(相模守)・同氏政父子が返状を認め、このたび御養子として、氏政の次男である国増丸が定められたこと、先約の旨に従って熟慮の末に受諾したこと、これにより、越・相両国の御交誼がいっそう深まるので、歓喜満足しており、御両使(寺僧の広泰寺昌派と旗本の進藤隼人佑家清)に申し含めたこと、これらを懇ろに伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』755号「山内殿」宛北条「氏康」・北条「氏政」連署状)。

同日、氏政の兄弟衆である北条氏照(源三。氏康の三男。武蔵国多西郡を中心とした由井領を管轄する。同滝山城主と下総国栗橋城主を兼務する)が、越後国上杉家の年寄中へ宛てて返状(謹上書)を認め、御一儀として、刀一口を賜ったこと、誠に本望の極みで、珍重の思いであること、よって、太刀一腰を進覧し、御祝儀を表するばかりであること、是非とも御意にかないたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』757号「謹上 越府江」宛「平 氏照」書状 封紙ウハ書「越府江 従相州本城」)。

同日、相州北条家の一族衆である玉縄北条康成(彦九郎。相模国東郡の玉縄領を管轄する玉縄北条左衛門大夫綱成の嫡男)が、越府の年寄中へ宛てて返書(謹上書)を認め、貴札を披読し、本望の極みであること、もとより越・相が御一和を遂げられたので、めでたく珍重であること、これにより、御検使として広泰寺を寄越されたこと、(輝虎の)御意向に任せられ、氏政父子・拙父子(綱成・康成)が今般に御誓詞血判を呈されたので、いよいよ(越・相両国の)御入魂が簡要至極であること、御意にかないたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』758号「謹上 越府 貴報人々御中」宛「平 康成」書状写)。

同日、氏政の兄弟衆である北条氏照が、越後国上杉家側の取次である山吉孫次郎豊守へ宛てた返状を認め、広泰寺と進藤方を寄越されたについて、輝虎からの糊付の御状を給わったこと、誠にもって本望に思っていること、御両使(広泰寺昌派・進藤家清)に対し、あらゆる場において、いささかも配慮を欠かさないように、力の限り気を配っていること、(輝虎が氏照に)今後とも用命があれば、仰せ下さるように、(山吉豊守に)御取り成しを任せ入ること、委細は進藤方が口上に頼み入ること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』759号「山吉孫次郎殿」宛北条「氏照」書状写)。

同じく北条氏照が、山吉孫次郎豊守へ宛てた返状を認め、越・相御一和を遂げるについて、天用院をもって申し送られたところ、速やかに輝虎が御誓詞を、特に御身血を付けられて寄越されたこと、めでたく珍重の思いであること、これにより、氏康父子の誓詞血判を御所望であるとのこと、広泰寺ならびに進藤方の眼前において、(輝虎の)御意向の通り、身血を染めた誓詞を進め置かれること、かくなるうえは、(輝虎の)早速の信州へ向かっての御出張が肝心との思いであること、次に愚拙(北条氏照)の誓詞については、先頃に沼田衆から御内儀があるとして申し越されたので、進め置いたところ、このたびは(誓詞に)身血を染めるべきとの旨であり、(輝虎の)御意向の通り、広泰寺・進藤方の眼前において、身血を付けて手渡したこと、今後はいよいよ越・相両国の御入魂のため、一心に取り計らうこと、この趣を御取り成しに預りたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』760号「山吉孫次郎殿」宛北条「氏照」書状写)。

10日、相州北条氏康が返状を認め、芳翰を披読し、本望の極みであること、先頃に父子(相州北条氏康・同氏政)の心底の趣は、誓詞をもって申し入れたので、(輝虎の)御身血を(染めた誓詞を)所望したところ、速やかに寄越されたこと、大慶満足であること、このたび広泰寺が持参された御案文の趣に従い、身血を(染めた誓詞を)進め入ること、委細は氏政が(紙面にて)申し述べること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』761号「山内殿」宛北条「氏康」書状)。

同日、相州北条氏康が返状を認め、御音信として、昆布一合・鱈一合・干鮭十尺・樽酒三荷を送り給わったこと、当口においてはいずれも稀少な一品であり、賞味に預かったこと、銘酒はひとしを堪能したこと、詳細は御両使(広泰寺昌派・進藤家清)に申し含めたこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』782号「山内殿」宛北条「氏康」書状)。


11日、氏政の兄弟衆である藤田新太郎氏邦(氏康の五男。武蔵国男衾郡を中心とした鉢形領を管轄する)が、取次の山吉孫次郎豊守へ宛てた返状を認め、天用院が先月下旬に帰路致したこと、御両使(広泰寺昌派・進藤家清)が程なく到来したこと、もとより御血判を拝見した氏康父子は満足歓喜されていること、拙子(藤田氏邦)においても、めでたく珍重の思いであること、氏康父子も宝印を翻し、御案書の通りに身血を放ち(誓詞を)進め置かれたこと、この通り(越・相両国が)御入魂を遂げたのは、両国士民の大慶は尽きないこと、このうえは信州に向かって御出陣されるのを待ち奉るばかりであること、そのため、此方(氏邦)からも使者を差し添えて申し入れること、委細は(広泰寺昌派・進藤家清)の口上に任せること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』763号「山吉孫次郎殿 御宿所」宛「藤田新太郎氏邦」書状写)。



15日、越府へ帰還する途中の両使の広泰寺昌派・進藤隼人佑家清は、越・相一和の交渉に関与している上野国衆の由良信濃守成繁が拠る上野国新田郡の金山城に入る。

16日、広泰寺昌派と進藤隼人佑家清が、山吉孫次郎豊守へ宛てて返状を発し、御書を謹んで拝読し、恐れ多い次第であること、よって、相府での首尾を、迅速に注進するべきところ、(一和の)落着が遅れ、(注進を)怠ったかのようで悩ましく、困り果てたこと、去る10日に様子は申し上げたこと、(今頃は)おそらく参着したであろうこと、されば、この御飛脚は、路中において間違えがあっては、無益なので、由信(由良成繁)が留め置かれていること、昨15日の申刻(午後四時前後)に新田の地(金山城)に到着してから、 (輝虎の)御諚の旨を聞き届けたこと、今日はこの地(金山城)に逗留仕るので、まずもって早々に申し上げること、何はともあれ、取り急ぎ参上致し、(このたびの首尾を)詳しく説明すること、適切な御取り成しを頼み奉ること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』764号「山吉孫次郎殿 参御宿所」宛「広泰寺昌派・進藤隼人佑家清」連署状)。



そうしたなか、相州北条家の駿河国御厨地域における東部拠点の深沢城に、甲州武田軍が攻め寄せてくる。

同日、相州北条氏康から書状が発せられ、敵(甲州武田軍)が動き出したについて、氏政が飛脚をもって申し届けるにあたり、一翰に及んだこと、今16日に、(信玄が)信・甲の人数を総動員して、今16日に(駿河国)御厨郡の古(深)沢新地へ攻め寄せたこと、堅固に(防備を)申し付けたので、御安心してもらいたいこと、直近の情報によれば、彼の郡内に敵(武田軍)が新地を取り立てるようであること、それが完成してしまったならば、氏政は立ち向かうべきであろうか、難所なので、おのずから対陣となるのは明らかであること、(信濃国への)後詰めの御手立てを任せ入ること、どのような様子かは重ねて注進に及ぶこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』765号「山内殿」宛北条「氏康」書状)。

同日、相州北条氏政から書状が発せられ、取り急ぎ申し上げること、よって、信・甲の人衆(甲州武田軍)が残らず、今16日に駿州内の古沢の新地に攻め寄せてきたこと、当手の人衆を籠め置いているので、力の限り防戦に及ぶので、御安心してもらいたいこと、敵の手立ての様子は重ねて申し入れること、つまるところ、早速にも(信濃国へ)後詰めの御手立てが専一であること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている。さらに追伸として、追って申し上げること、上・信両国の人数が出払って、信玄陣へ馳せ着いたそうなので、由良(成繁)・長尾方(足利長尾但馬守景長。上野国邑楽郡の館林城に拠る)へ加勢の重要性を説いたこと、いよいよ両名(由良成繁・長尾景長)へ(輝虎の)御指図を仰ぐところであること、を伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』766号「山内殿」宛北条「氏政」書状)。

同日、相州北条氏政が、由良信濃守成繁へ宛てて書状を発し、取り急ぎ申し上げること、よって、信・甲の人衆が今16日に駿州内の深沢新地へ攻め寄せてきたこと、左衛門大夫(玉縄北条綱成)・松田(左馬助憲秀。一家に準ずる一族の家格を与えられた譜代の重臣。小田原衆)以下が立て籠もっているので、別条はないこと、ただし、(武田信玄の)今時分の出張は、いかなる子細であろうか、いずれにしても今明の(武田軍の)様子を見届け、重ねて注進に及ぶつもりであること、そして、小幡(上総介信真。上野国甘楽郡の国嶺(峰)城を本拠とする上野国衆)をはじめとして、(武田家の西上野先方衆が)自領の衆を引き連れているそうなので、新太郎(藤田氏邦)に申し付け、西上州へ向かわせ、手立てに及ばせること、是非とも父子(由良信濃守成繁・同六郎国繁)のうちのどちらかが出陣し、万端を新太郎(藤田氏邦)と相談されるについては、作戦は思うがままであること、もしも敵方に横撃されるようであれば、適当な人衆を数多加勢として送り込むこと、かならずかならず遅れては、無意味であるので、何としても20日か21日にはするのが専一であること、委細は新太郎(藤田氏邦)が申し届けること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、越国へも飛脚を立てるので、心得たうえで申し入れられるのを、任せ入ること、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』767号「由良信濃守殿」宛北条「氏政」書状)。

18日、由良信濃守成繁から、越後国上杉家
の年寄中へ宛てて書状が発せられ、取り急ぎ申し達し、相府小田原から早飛脚をもって申し届けられること、信玄自身が信・甲両国の人衆を召し連れ、一昨16日に御厨郡内の古沢新地へ攻め寄せてきたこと、これにより、信州へ向かって後詰めの御手立てについて、申し達せられること、委細は河豊(河田豊前守長親)・直大(直江大和守景綱)・山孫(山吉孫次郎豊守)へ申し届けるので、かならずや御披露を遂げられるべきこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』768号「越府 人々御中」宛「由良信濃守成繁」書状)。



23日、取次の山吉孫次郎豊守が、相州北条方の取次である遠山左衛門尉康光(氏康の側近。小田原衆)へ宛てた条書を使者に託し、相当に(越・相両国間の不一致を)払拭する御覚悟があるようなので、(輝虎の)存分の通りを申し述べるための覚え、一、松山領(武蔵国比企郡)の引き渡しが御落着するように、御調儀(調整)を急がれるべきこと、一、房・総(房州里見家)は両彼の国の人衆を召し連れるそうであり、その旨を弁えてもらいたいこと、一、明24日の(信濃国)出馬が合議で決まっていたところ、貴所(遠山康光)の御越しは遅延しており、しかしながら、26日には間違いなく門を出られ、越山の延引はないこと、一、越・相御対談により、(越・相両軍はぞれぞれ)どの口から信・甲(甲州武田領)へ攻め込まれるべきか、小田原御父子(相州北条氏康・同氏政)の御心腹を聞き届けたいこと、一、御陣中において、(遠山)が御気遣いなく振舞えるようにとの、輝虎の内意であること、一、このたびの(越・相)御一和は、もっぱら(武田)信玄に御遺恨があるために結ばれたわけであり、今秋中に信玄は滅亡を免れないものと、我々は見極めており、きっと(相州北条家)も同じ御認識ではないかと思われること、一、(越後国上杉家の)年寄共は一致して、(遠山と)御目に懸かるそうであること、御父子(北条氏康・氏政)から寄せられた御糊付(大事の書状)に対し、(輝虎の)御返答を相府小田原へ送ったのでは、御返事が遅延してしまうので、当府にてまず(遠山)へ御返事に及ばれるそうであること、以上、これらの条々について申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』712号「遠左 御旅宿」宛「山孫 豊守」条書案)。


当文書は、4月に置かれているが、相州北条氏康の側近である遠山康英の来越が遅れている記事からして、当月の発給文書となり、輝虎は6月26日に信州への出馬を予定していたことが分かる。


25日、上野国沼田城(利根郡沼田荘)の城将である松本石見守景繁(大身の旗本衆)が、年寄衆の直江大和守景綱・河田豊前守長親へ宛てて返状を発し、御両衆(直江景綱・河田長親)からの御切紙を披読し、愕然としたこと、すでに御当地(沼田城)の連絡体制については、山吉殿を御奏者に頼み入ったからには、当春に村上(越後国瀬波(岩船)郡の村上城)の御陣中において、(山吉豊守と)神血をもってを申し合わせたからには、なおさらいっそう(松本景繁自身は契約関係を)ゆるがせにはしなかったこと、もしも御取次の方が添状の次第を、それぞれに仰せ出されたのでは、どうして一筋に山吉殿へ申し伝えないなど、あってはならないかと思われ、(松本が)参府致すからには、(直江・河田と)面上をもって申し談じたいこと、まずは申し達すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらには追伸はないこと、以上、これを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』769号「直大・河豊 参御報」宛「松石 景繁」書状)。


6月18日付越後国上杉家年寄衆宛由良成繁書状に見えるように、すでに越・相一和の交渉における取次の任から外れている直江景綱と河田長親にも連絡が入ってしまった一方、山吉豊守には何らかの理由によって届かず、取次契約のない直江・河田の両人が沼田城衆へ副状を送ったことから、このような騒動になったのではないか。松本景繁は越府春日山に戻ると、そのまま城将の任から外れている。



27日、遠山左衛門尉康光が、由良信濃守成繁へ宛てて書状を発し、取り急ぎ申し達すること、明28日に当地(相府小田原)を罷り立つので、来たる朔日にはその地(上野国金山城)へ参着致すこと、よって、 屋形様(北条氏康)から(由良成繁)へ御状が送られること、ならびに(小川)夏昌斎へも御書を整えられたこと、このほど拙者(遠山康光)が越(越後国上杉家)へ差し越されるので、夏昌斎を差し添えられようにとの仰せであること、夏昌斎にとっては、誠に老足といい、殊に炎天といい、山路遠境といい、かれこれ大変な御難儀ではあっても、一方では御公儀(相州北条家)のため、一方ではこの拙者自身(遠山)のため、何れにしても、(由良成繁が)御意を加えられ、同道されるように頼み奉ること、ことさら此方(相州北条家)からは誰も同道しないこと、拙者一人(遠山)が(越府行を)仰せ付けられたこと、様々に拙者(遠)ばかりの負担が重いと感じ、辞退を申し出るも、折しも屋形様(氏康)の御恐怖の時であり、強いては申し上げられないまま、仕方がなく越へ罷り越すこと、従って、(由良へ)伝馬五十疋ばかりを此方(相州北条家)から下されること、御造作ではあっても、御領分(金山)から沼田まで(伝馬を)仰せ付けられて下されたいこと、朔日にその地(金山)へ参着したら、翌日には(越後国へ向けて)罷り立つこと、御心得として申し届けておくこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』770号「信濃守殿 参御宿所」宛「遠左 康光」書状)。


28日、相州北条氏康から、山吉孫次郎豊守へ宛てて書状が発せられ、先頃に広泰寺・進藤方が帰路した折、遠山左衛門尉(康光)に(同行を)申し付けるつもりでいたところに、(甲州武田)信玄が駿州御厨郡に向かって出張し、今なお在陣中であること、これにより、(遠山の派遣を)延引したこと、このたび左衛門尉(遠山康光)を出立させること、いよいよ御指南を頼み入ること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『戦国遺文 後北条氏編二』1268号「山吉孫次郎殿」宛北条「氏康」書状)。

同日、相州北条氏康から、進藤隼人佑家清へ宛てて書状が発せられ、このたび御使いとして入り来るについて、面談を遂げたのは本望であること、よって、遠山左衛門尉(康光)に、とりもなおさず(使いを)申し付けたところ、不慮の横鑓が入ったゆえに延引したこと、今日にも出立させること、適切に御指南に預かりたいこと、委細は彼の(遠山康光)口上にあるべきこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』771号「進藤隼人佐殿」宛北条「氏康」書状写)。



同日、氏政の兄弟衆である北条源三氏照が、他国衆の野田右馬助景範(下総国葛飾郡の鴻巣城を本拠とする)へ宛てて書状を発し、西口(駿河国方面)の統治、そのほか万端の所用を申し付けられるについて、長々と小田原に在府、これにより、(野田景範と)しばらく申し交わしていなかったこと、本意ではなかったこと、よって、越国の模様を、きっと御心配されているであろうから、あらましを申し入れること、一、越・相一和は落着し、互いに血判誓詞を取り交わしたこと、一、来る軍事作戦の模様は、輝虎は放生会(8月15日)以前に信州口へ向けて出張し、甲州へ攻め入るそうであること、当方は駿州口から甲州へ攻め入られること、この段取りをつけられるため、三日前(ママ)に遠山左衛門尉(康光)を越国へ差し越されたこと、関東中の帰属については、輝虎から様々な要求があり、上州については、上杉本国との主張に従い、一国を引き渡されたこと、下総国古河・栗橋(ともに葛飾郡)についても、何かと干渉してくる面々が多かったこと、そうではあったが、貴殿(野田景範)の御本地(栗橋)を、この氏照が預かっていると知りながら、もはや干渉してくる者はいないのではないかと思われ、何としても貴殿(野田)に御本地返還する決意をもって、当方(相州北条家)は様々に手を尽くしていること、氏照も同様の思いであること、その口(古河・栗橋)の体制がくまなく維持されるように、当方が熱心に取り組まれている事実を決して忘却されず、いよいよ御信任してほしいこと、一、この25日に駿河国富士屋敷地(富士郡の大宮城)が甲衆(甲州武田軍)の攻撃を受け、宿城が打ち破られて五百余名の負傷者を出したとの知らせを寄越してきたこと、また(武田)信玄は中途に馬を立てられているそうであること、委細は浅見左京亮に言い含めたこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1270号「右馬助殿 御宿所」宛北条「源三氏照」書状)。



この間、敵対関係にある甲州武田信玄(徳栄軒)は、6月9日、房州里見家の宿老である小田喜正木弥九郎憲時(上総国夷隅郡の小田喜領を管轄する)へ宛てて、直筆の書状を発し、未だに心緒(心中で思っていること)を述べずにいたとはいえ、一筆を染めること、もとより信玄と(相州北条)氏政は深い交誼で結ばれていたこと、このゆえをもって随分と助言したこと、関東中過半の指揮できる方法を教えて委任したところ、その厚恩を忘れて甲・相両国の間で抗争が起こったのは、やむを得ない次第であること、こうなったからには無二無三に義弘御父子と申し合わせ、小田原(相州北条家)を退治するべき考え以外にはないこと、委細は彼の(使者)口上にあること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編』1418号「正木弥九郎殿」宛武田「信玄」書状写)。

10日、西上野先方衆の高田大和守繁頼(上野国甘楽郡の高田城を本拠とする上野国衆)へ宛てて書状を発し、このたび三河守(小幡信尚。同鷹巣城を本拠とする上野国衆)が逆心を企てたので、退治するために人衆を遣わしたところ、(これに協力して)いつもながらの子細とはいえ、格別な御奮闘をされたそうであり、祝着であること、殊にたちまちの追伐は大慶であること、このうえも謀叛の族が出てきたならば、一報が寄せられ次第に人衆を遣わす手筈を整えておくため、信玄自身の駿州出陣を延引したこと、なお、来信を期していること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編』1419号「高田大和守殿」宛武田「信玄」書状)。

12日、常陸国太田の佐竹氏の客将である梶原源太政景(太田三楽斎道誉の世子)へ宛てて、自筆の書状を発し、先日は回報ながら、申し上げたこと、参着したのかどうか気になっていること、よって、来秋に小田原(相模国西郡)へのまたとない戦陣を催すこと、この趣を相談し合うため、(房州里見)義弘へ玄東斎(日向入道宗立。直参衆)をもって申し述べること、(上総国天羽郡の佐貫城へ至る)路次番等の指南を頼み入る所存であること、手立てなどの模様は、彼の者(玄東斎)の口上に附与するので、ここで筆を擱くこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編六』4219号「梶原源太殿」宛武田「信玄」書状)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第六巻』4219号 武田信玄書状

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