越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(旱虎)の略譜 【50】

2013-07-01 16:13:55 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
永禄12年(1569)閏5月 上杉輝虎(旱虎。弾正少弼) 【40歳】

3日、(上杉「輝虎(花押a)」)、相州北条方の取次である「北条源三殿(氏照。氏康の三男。武蔵国滝山城主と下総国栗橋城主を兼務する)」へ宛てて書信を発し、このたび一和について、氏康父子から使僧(天用院)が寄越されたこと、輝虎の思いのたけを天用院へ申し渡したこと、すでに神名血判をもって申し合わせたからには、いささかも連帯する決意に変わりはないこと、これからは、適宜に取り成しを任せ入ること、これからの甲(甲州武田領)への出馬については、承知していること、これらを懇ろに伝えた。

4日、相州北条「氏康(相模守)」から、天用院の越府行に同道した上野国沼田城(利根郡沼田荘)の城将である「松本石見守殿(景繁(大身の旗本衆)」へ宛てた書信が今川氏真の使僧・東泉院に託され、このたび(今川)氏真から越府へ使僧(東泉院)をもって申し届けられること、懸川(遠江国佐野郡)出城の様子のこと、すでに本意(越・駿同盟)を達せられたからこそ、その国(越後国上杉家)に支援を頼み込まれたのであり、この筋目を適切に御取り計らってほしいこと、詳細は東泉院が口述すること、未だに天用院が帰路に就いたとの知らせがないので心配していること、現在も氏政は豆州に馬を立てており、(輝虎が)御出陣されるのを、ひたすら待ちわびていること、これらを懇ろに伝えられている。
同日、相州北条氏康の側近である「遠左康光(遠山左衛門尉康光。小田原衆)」から、「松石(松本石見守景繁)御宿所」へ宛てた副状が東泉院に託され、先月18日付の越後国塩沢(魚沼郡上田荘)から発せられた御書中を、晦日に当地小田原に於いて拝読したこと、天用院の御参府に御同道されたのは御太儀であったこと、其許(越府)に於いて、いよいよ適切な御取り成しは御手前にかかっていること、これにより、(今川)氏真が使僧をもって府中(輝虎)へ申し達せられたので、氏康も添状を寄越されること、氏真と松平(徳川家康)の間で一和がまとまり、先月15日に氏真の懸川出城が滞りなく落着し、今現在は氏政による伊豆国三嶋陣(田方郡)の近所である駿河国沼津(駿東郡)の地に馬を立てられて、氏政と熟議して同薩埵山陣・蒲原城(ともに庵原郡)を始めとする国中の要地の維持運営に強化を施されたこと、氏真が本懐を遂げるのは、ひとえに屋形様(輝虎)の御采配にかかっていること、詳細は来信を期すること、これらを懇ろに伝えられている。更に追伸として、氏真の使僧である富士五社別当の東泉院が一切を口述することを伝えられている。
同日、相州北条「氏康」が、他国衆の「由良信濃守殿(成繁。上野国金山城主)」へ宛てて書信を発し、(今川)氏真が越国(越後)へ使僧の富士東泉院を寄越されるので、その道程に於ける配慮を、念入りに申し付けられてほしいこと、その地(金山城)までは市川半右衛門尉(家老の石巻勘解由左衛門尉康保の弟である同左馬允康敬(御馬廻衆)の同心)が同行すること、よって、これらを遠山左衛門尉(康光)が詳報することを伝えている。

5日、関東味方中の簗田「中務入道晴助(ママ)」・同「八郎持助父子(下総国関宿城主)」から、年寄衆の「山吉孫次郎殿(豊守。大身の旗本衆)・直江大和守殿(景綱。同前)」へ宛てて書信が発せられ、このほど寄越された貴書を精読したこと、紙面の通り、相州北条家から迎えられる養子の件を御知らせのため、使者として大石右馬允(旗本衆)を遣わされたこと、越・相一和の成就に伴い、彼方(相州北条家)が偽りのない証として履行するべき下総国山王山城(葛飾郡下河辺荘)の取り壊しが昨4日の午後に実行されたこと、こうして真っ先に当方の苦境への対処が施されたので、ひたすら本望であり、恐悦していること、何はともあれ、このたび越府へ派遣した使者の真雪斎が帰着したのち、改めて代官をもって申し達すること、適宜の御取り成しを任せ入ること、詳細は彼の者(真雪斎)が演説すること、これらを懇ろに伝えられている。更に追伸として、(簗田)晴助が判形を据えていないのは、体調を崩しているためであり、無沙汰したわけではないことを伝えられている。

同日、これより前に出羽国の味方中である土佐林能登入道禅棟(杖林斎。出羽国の郡主である大宝寺氏の重臣。出羽国藤島城主)の許へ使僧の広泰寺昌派らを派遣したところ、土佐林禅棟の子である土佐林「宮内少輔氏慶(氏頼)」から、取次の「河田豊前守殿(長親。大身の旗本衆)」に宛てて返書(進上書)が発せられ、尊書と段子一巻を下されたので、拝受したこと、過分な御厚意であること、このたび越後国村上山の御本意を達せられ、速やかに御馬を納められたので、陪臣の我等(土佐林氏慶)に於いても、めでたく喜ばしいこと、このほど広泰寺を差し越され、(輝虎の)御意を示されたので、杖林(禅棟)もひたすら恐縮しており、何はともあれ、こちらから申し上げること、こうした趣旨を適切に御披露してもらいたいこと、これらを懇ろに伝えられている。

6日、(上杉「輝虎(花押a)」)、関東味方中の「広田式部太輔殿(直繁。武蔵国衆。武蔵国羽生城主)」へ宛てて返書を発し、越・相一和について、このたび飛脚が到来したので、喜びもひとしおであること、輝虎の真意を相(相州北条家)へ申し届けたたところ、氏康父子が共に意見を一致させた上で、使僧の天用院を差し越されたゆえ、条件をすり合わせて着実に一和を取りまとめたこと、とにかく安心してほしいこと、関東の様子を事細かに申し越されたので、しっかりと状況を把握できたこと、近年は味方中の南(相州北条方)への従属が相次いでいたなか、其方(広田直繁)は忠義を一心に貫いてくれたので、格別に感じ入っており、なおいっそうの勲功を励んでほしいこと、これらを懇ろに伝えた。

同日、沼田城衆の「河伯重親(河田伯耆守重親。大身の旗本衆)」が、越府に滞在中の沼田城将である「石州(松本石見守景繁。同前)へ参人々御中」へ宛てて書信を発し、これまで繰り返し書中をもって申し届けているにも係わらず、未着のためなのか、一向に応答がないので心配していること、先だって房州(房州里見家)へ向かうように仰せ付けられた「原佐」の飛脚が運んだ御書に対する返書は、由信(上野国衆の由良信濃守成繁)の許から届けられたのかどうか、すでに御返札などが到着しているのであれば、差し越すべきとの指示通りに届けること、其許(越府)で彼の御書札を御披読してほしいこと、其許での御首尾がどのようになられているのか、一向に伝わってこないこと、北信濃や越中を御堅持されているのかどうか、併せて御知らせ願いたいこと、めでたく万事が整い次第、改めて連絡すること、これらを懇ろに伝えている。更に追伸として、当表の国境地帯は何れも平穏無事なので、安心してほしいことを伝えている。

同日、土佐林家中の竹井「太和守時友」から、取次の「河田豊前守殿(長親)」へ宛てて返書(進上書)が発せられ、このたび寄せられた御書を謹んで拝読し、恐縮していること、昨冬に(輝虎から)杖林斎(土佐林禅棟)に対し、越後国藤懸城(瀬波郡小泉荘)を本庄方から奪還するための御助勢を仰せ付けられたので、同名掃部助(土佐林時助)に小勢を添えて赴援させたところ、間もなくして彼の地が自落したので、(輝虎は)御本意を達せられたこと、それに御満悦されたので、広泰寺をもって野拙(竹井時友)のような陪臣にまで御音信を仰せ下されたこと、そればかりか御脇差を拝領したので、過分な御厚意であること、何はなくとも、あれこれ御礼を申し上げるので、よろしく御披露してもらいたいこと、これらを懇ろに伝えられている。

7日、相州北条方の取次である北条源三氏照から、「越府」の年寄中へ宛てて返書が発せられ、越・相御一和について、沼田衆との内談の旨に任せ、このたび氏康父子が下総国山王山城を破却する意向を申し達したところ、御満悦の意を綴られた御状が寄せられたので、(北条氏照も)本望満足であること、今後なおいっそう越・相両国間の連携に努めるので、この趣旨を(輝虎に)御理解願いたいこと、これらを懇ろに伝えている。

同日、土佐林「杖林斎禅棟」から、年寄衆の「柿崎和泉守殿(景家。譜代衆)・山吉孫次郎殿(豊守)・直江太和守殿(景綱)」へ宛てて返書が発せられ、仰せの通り、このたび本庄(越後国村上城)へ向かって御屋形御自身(輝虎)が御馬を進められたので、内々にすかさず御加勢に及ぶべきところ、最上山形勢への対策のために出羽国内の清水・鮭延(ともに最上郡)を始めとする拠点に番手の人数を割く必要から、少々の御助勢に留まったにも係わらず、広泰寺をもって御一札を下されたこと、これにより、名誉も実益も得られたので、ひたすら恐縮していること、そればかりか御具足を拝領したので、恐悦していること、こうした趣旨をよろしく御取り成してもらえれば、めでたく喜ばしいこと、何はなくとも、御軍旗を納められた御祝意を、こちらから申し上げること、その際には(輝虎の)御理解を仰ぎたいこと、これらを懇ろに伝えられている。
同日、土佐林(禅棟)から、先だって使節として羽州に下向した「広泰寺昌派・高橋様(越後国一宮・弥彦神社の宮司か)参御侍者中」へ宛てて書信が発せられ、先頃は長々と御在陣してくれたにも係わらず、忙しさに取り紛れて満足な応接ができなかったのは、心外であること、大川殿(三郎次郎長秀。外様衆。越後国藤懸城主)と対立して他所に拠る大川舎弟両名について、愚入(土佐林禅棟)が意見して還住させるように仰せ付けられたので、色々と両名に働き掛けたところ、真っ先に貴僧らが奥郡へ御下向された影響もあって、兄の孫太郎方は素直に説得に応じたが、弟の藤七郎方は自分の主張が通らなければ承服できないとして、説得に応じないでいること、このため不首尾の要因が当方の手抜かりにあるとして、御奉行衆(年寄衆)に疑念を持たれる事態を憂慮しており、諏訪上下大明神・八幡大菩薩に誓って結果を出すべく奔走していること、幸いにも御両所(広泰寺昌派・高橋某)が御逗留中に、某(土佐林禅棟)の奔走している様子をつぶさに見聞されたはずなので、どうか十分に御口添えしてほしいこと、取り分け彼の両人(大川孫太郎・同藤七郎)の今後の身の振り方について、貴府では両名が他家への奉公を望んでいると、いぶかしんでいるようであるが、そのような事実はなく、某が爰許(大川)で仲介にあたっている間は、勝手はさせないので、どうか御安心してほしいこと、長年に亘って培ってきた御交誼を疎かにするはずがなく、この真情を御理解してもらいたいこと、御両所とは格別に申し交わしていきたいので、御同意してもらえれば、本望満足であること、これらを懇ろに伝えられている。更に追伸として、野拙(土佐林禅棟)が交誼を疎かにしていない事実を、越府の要人への御口添えしてもらいたく、頼み入るばかりであることを伝えられている。

8日、関東味方中の佐竹「義重(次郎。常陸国衆。常陸国太田城主)」から、取次の「河田豊前守殿(長親)」へ宛てて書信が発せられ、取り急ぎ脚力をもって申し入れること、先頃に使者として小貫佐渡守(頼安)・川井玄蕃允(河井堅忠)を差し越したところ、輝虎から取り分け御懇切に応接された旨を知らせてきたので、まさに本望であること、つまりは各々(越後国上杉家の要職)の取り計らいによるものならば、太悦もひとしおであること南方(相州北条家)と御一所を取りまとめられるそうであり、何れにしても(輝虎が)思いのままに関東中を御平定されるのであれば、異存はないこと、このところを御熟慮されるべきであり、各々の取り計いにかかっていること、これらを懇ろに伝えられている。

9日、羽州米沢(置賜郡長井荘)の伊達家の老臣である「元斎万止」から、「上杉殿」の年寄中へ宛てて書信が発せられ、先般の本庄弥次郎方(繁長。雨順斎全長。外様衆。越後国猿沢城に蟄居中)の不忠に際し、(伊達)輝宗が調停に及ばれた本庄の御赦免を御承諾されたので、ひときわめでたく喜ばしいこと、これからますます当家と御交誼が深めてもらえれば、すこぶる喜ばしい思いであること、当口で適う御用命など仰せ越されれば、すでに一線を退いた身ながら力の及ぶ限り奔走すること、進献した一種(副食物一式)を興じてもらえれば、晴れがましい限りであること、こうした趣旨を、よろしく御理解願いたいこと、これらを懇ろに伝えられている。

10日、佐竹次郎義重から派遣された使節の河井玄蕃允堅忠と小貫佐渡守頼安が帰国するのに伴って条書(朱印状)を託し、一、越・相一和について、義重の御意見に配慮し、南(相州北条家)との交渉に臨んだこと、この補足として、証拠となる文書の写を添えること、一、今後は甲(甲州武田家)の使者を一切受け入れられてはならないこと、この補足として、これは相へ示すべき信義であること、一、越・相一和の締結に伴い、これまでの(義重との)盟約で見直すべき事柄について誓句を取り交わしたいこと、一、相・越両国の無事が締結すれば、例によって関東の諸士のなかでは、(佐竹)義重と輝虎の間を阻害する不埒者が現れるのは必至であり、こうした悪意に惑わされず、毅然とした態度で臨んでほしいこと、この補足として、相による関東諸士に強圧な振舞いに及ぶなどの背信行為を申し届けてきた場合には、別の問題として対応するべきであろうこと、一、近いうちに輝虎が関東出陣を挙行するので、その際には義重自身に御出馬してもらいたく、同陣してあれこれ談合したいこと、これらの条々について説明した。

16日、旗本の進藤隼人佑家清に伴われて相府へ派遣された使僧の広泰寺昌派が、昨15日に到着した上野国沼田城から、懇意にしている「本庄美作入道殿(号宗緩。実乃。すでに隠居した老臣)御宿所」へ宛てた書信を、折りよく沼田から越府に戻る、直江大和守景綱が雇った飛脚に託し、直和(直江景綱)の飛脚をもって一書を進ずること、昨15日に沼田の地まで苦労もなく罷り着いたので、御安心してほしいこと、取り分け一段と体調も優れ、耳も良く聞こえるので、御悦喜してほしいこと、ありがたくも屋形様(輝虎)の御威光が皆々に浸透しているがゆえ、柿崎(越後国頸城郡佐味荘)を始めとする要地の各員が、こぞって接待を申し出られるため、事前に屋形様から路銭を過分に頂戴しているので、そのつど御無用と固辞したにも係わらず、柿崎では鶴久尾を、北条(同刈羽郡佐橋荘)では樽酒二荷と馬の飼料を頂いたので、在府の五郎殿(譜代衆の北条弥五郎景広)に御礼を御伝えしてほしいこと、次いで上田(同魚沼郡上田荘)では栗林方(輝虎の甥である上田長尾喜平次顕景の陣代を務める栗林次郎左衛門尉房頼)から鶴久尾一双を手渡され、同地に滞在していた蔵田兵部方(旗本衆の蔵田兵部左衛門尉)は、白布一端・両金一懸・蘇合円(丸薬)三貝を沼田に送り届けてくれたので、両人についても御礼を頼み入ること、当地沼田に於いても各々に対し、河伯(大身の旗本衆・河田伯耆守重親)・光清(同じく小中大蔵丞を指すか)・石見方(大身の旗本衆・松本石見守景繁)は言うまでもなく、皆々から懇ろに歓待を受けており、このように固辞しきれなかったこと、御役目柄とはいえども進隼方(進藤隼人佑家清)はいっそう懇切にしてくれているので、御安心してほしいこと、こうした趣旨を年寄衆の山吉殿(大身の旗本衆・山吉孫次郎豊守)・直江殿(同じく直江大和守景綱)・鯵清(同じく鰺坂清介長実)の各々へ御雑談を頼み入ること、くれぐれも御失念しないでもらいたいこと、一、南方(相州北条家)からは、(北条)氏政が今もって在陣中であるとの知らせが寄せられており、いよいよの時を迎えているので、明日には相府へ向けて出立すること、めでたく大役を果たして帰寺の折に再会を期すること、これらを懇ろに伝えている。

17日、帰国の途に就いた、佐竹次郎義重の使節である「河玄堅忠(河井玄蕃允堅忠)・小佐頼安(小貫佐渡守頼安)」から、途中の越後国村松(蒲原郡菅名荘)の地から、取次の「河豊(河田豊前守殿長親)御宿所」へ宛てて書信が発せられ、このたびの滞在中に於ける御懇待の数々について、まさに言葉で表せないくらい感謝していること、取り分け出立に際しては、態々府城の春日山城から府内まで一緒に下ってもらい、ひときわ面目を施せたので、ひたすら恐縮していること、帰着した折には、熱心に御接待してくれた様子を、(佐竹)義重に申し聞かせること、付き添わせてくれた案内人の辛労は一方ならぬものだったので、痛ましい限りであること、当地村松に於いて、義重の催した飛脚と出会い、自分たちに宛てられた書中を披見したところ、取り立てて異変はないこと、この書中も彼の飛脚に託すので、よろしく御披露してほしいこと、貴殿(河田長親)にも(義重の)一札をもって申されること、梅江斎(岡本禅哲。義重の側近)から愚所(河井堅忠・小貫頼安)に寄越された切紙も御一覧のために進ずること、何よりも先ず下総国山王山城破却が重要であること、今後とも更なる御取り成しに努めてもらいたいこと、改めて全てを申し達すること、これらを懇ろに伝えられている。

20日、国内の諸領主中へ宛てて朱印状(印文「地帝妙」)を発し、伊勢大神宮遷宮のため、当国越後に於いても棟別三銭の徴収することと、信心が深ければ率先して上積みするべきことを通達した。

某日、(上杉「輝虎(花押a)」)、濃(尾)州織田信長の取次である「林次郎左衛門尉殿」へ宛てて書信を発し、上意(将軍足利義昭)の御入洛の御祝儀として、使僧を差し上せること、これにより、信長にも申し届けること、よしなに取り成してもらえれば、優れて喜ばしいこと、当国瀬波産の青鷹(雌鷹)・兄鷹(雄鷹)を一連づつを遣わすこと、これらを懇ろに伝えた。


この間、甲州武田「信玄(徳栄軒)」は、16日、西上野先方衆の「浦野宮内左衛門尉殿(上野国大戸城主)」に対して朱印状(印文「晴信」)を送り、やにわに駿州表へ軍勢を出したので、武州筋を牽制するため、浅利右馬助(信種。譜代衆。上野国箕輪城代)を箕輪(群馬郡)に向かわせること、自領の防備はもとより、信玄に対せられる忠義でもあるため、箕輪に駆けつけて浅利の指示に従い、ひたすら戦功を励めば、本望であること、これらを懇ろに伝えている。更に追伸として、掌中のできものにより、印判を用いたことに断りを入れている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 730号 上杉輝虎書状、731号 北条氏康書状(写)、732号 遠山康光書状(写)、733号 北条氏康書状(写)、734号 簗田晴助・持助連署状(写)、735号 土佐林氏慶書状、736号 上杉輝虎書状、737号 河田重親書状(写)、738号 竹井時友書状(写)、739号 北条氏照書状、740・741号 土佐林禅棟書状(写)、742号 佐竹義重書状、743号 元斎万止書状、744号 上杉輝虎条書(写)、746号 広泰寺昌派書状、747号 河井堅忠・小貫頼安連署状、748号 上杉輝虎朱印状、751号 上杉輝虎書状(写) ◆『戦国遺文 武田氏編 第二巻』 1413号 武田信玄書状 ◆『能代市史 資料編 古代・中世一』

※ 相州北条氏の使者である市川半右衛門尉については、下山治久氏の編著である『後北条氏家臣団人名辞典』(東京堂出版)を参考にした。
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