越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(謙信)の年代記 【永禄3年3月~同年12月】

2012-09-01 09:58:02 | 上杉輝虎の年代記

永禄3年(1560)3月7月 越後国長尾景虎(弾正少弼)【31歳】


当年は信州経略に傾注するつもりでいたところ、昨年に和睦を調停したにもかかわらず、越中国の東西に分立する椎名右衛門大夫康胤(越中国金山(松倉)城主)と神保惣右衛門尉長職(同国富山城主。これ以前に中部の増山城から東部の富山城に進出した)が、一部の神保家中の暴走によって、再び交戦状態となったばかりか、神保長職は甲州武田方に荷担していることが発覚したので、3月26日、椎名康胤を救援するために越中国へ出馬した。

その後、越中国富山(新川郡)まで進軍すると、年寄衆の斎藤下野守朝信(譜代衆)と北条丹後守高広(同前)が制札を掲げ、越中国新河郡太田上郷の真宗道場・寺家・門前町(椎名康胤の重臣である神前筑前守の領内)における越後州諸軍勢の濫妨狼藉を停止している(『上越市史 上杉氏文書集一』203号 斎藤「下野守」朝信・北条「丹後守」高広連署制札)。


同晦日、越後国長尾軍を前に神保長職は戦わずして富山城から自落すると、険難な増山城(砺波郡)へ逃げ込んでいる。

4月上旬、先行させた越中国味方衆は増山城を攻めあぐねたものの、自ら率いた越後衆が難所を越えて進陣すると、またもや神保長職は自落し、今度は武具・乗馬を遺棄して行方をくらましたので、神保への肩入れが疑われる能州畠山家との戦いを辞さない構えでいたところ、戦う意思のない畠山方が対話を懇望してきたため、これを聞き入れて穏便に事を済ませた。


4月21日、越後在国の関東管領山内上杉光哲(五郎憲政・憲当)から、北陸遠征に従軍中の上田長尾越前守政景(譜代衆。景虎の姉婿)へ宛てて書状が発せられ、ここしばらくは無沙汰をしていたこと、このたび景虎が越州(越中国)に出陣し、瞬く間に彼の国を経略して帰府されるのは、実にめでたく、喜ばしい限りであること、この余勢を駆って、是非とも関東越山を挙行してもらいたいこと、それにまた、ある方(常陸国衆の佐竹氏か)が越府に寄越してきた使僧が越中陣に向かったので、しかるべく(景虎への)取り成しを任せ入ること、これらを謹んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』204号「長尾越前守殿」宛上杉「光哲」書状写)。


今回は神保を許すつもりはなかったので、取り逃がしたことへの無念の思いを抱えながらも、十日足らずで越中国の状況を一変させ、戦後処理も過半を終えた結果に満足し、近日中に帰陣しようとしたところ、相州北条家に対抗する常陸国太田の佐竹義昭(右京大夫。常陸国太田城主)が支援を求めてきたので、28日、佐竹右京大夫義昭へ宛てて返書を発し、遠境にもかかわらず、わざわざ御使僧に一書を託して関東の情勢を知らせてくれた御厚情には、感謝してもしきれないこと、(佐竹義昭からの)来札の通り、敵方の側面を突く軍勢を編成されるべきこと、幸いにも諸家中ならびに関東八州の歴々が御揃いなので、すぐさま作戦行動に出られるべきこと、ただし、敵方と正面から立ち向かわれて、側面攻撃を待たずに堂々打ち破られるならば、ひとえに良将の御名誉であること、爰元の状況については、すでに御聞き及びの通り、打ち続く信州への出陣に取り紛れて、他事を忘れる有様であったこと、全く油断はしていないこと、その方面の戦略について、とにかく連々と相談したいこと、当年は信州へただちに出動する覚悟でいたところ、越中国の事情については、昨夏に起こった神保衆と椎名衆の抗争が、もはや収まりがつかない状況であり、長年にわたって通交してきた隣国であり、どうしても見過ごせないので、両衆の説得のために使者を遣わして無事を取りまとめたところ、神保家来の数名が不埒を働き、瞬く間に無事が破局してしまい、椎名が滅亡の危機に陥ったばかりか、事もあろうに神保が甲府(甲州武田氏)と固く手を結び、この景虎が信州へ出動した際には、両者が挟撃を企てており、こちらまでもが危機的状況に直面したこと、これに立ち向かうため、先月26日に越中国へにわかに出馬したところ、同月晦日の夜中に神保が富山城から自落し、彼の国西郡の増山城へ逃げ込んだので、すぐさま越中国味方衆を差し向けたこと、元より増山城は険難の地にそびえ立ち、そこへもって相当の人衆が立て籠もり、手堅く防戦したので、攻めあぐねた味方衆が敵城を遠巻きにするなか、景虎自ら大河難所を乗り越え、強襲するべく敵城に迫ったところ、またしても神保は夜中に逃げ去り、武具や乗馬などを捨てたまま行方知れずになったこと、このたび(神保方)を根絶やしにするつもりでいたところ、相当数を取り逃がしてしまい、追討の計略を講じたいところではあったが、(神保方には)地の利があって逃げるに易く、対応できなかったのは、ひとえに無念の極みであること、それでも十日足らずで国中を一変させてしまい、あまりにも当国の統治体制が覚束ないため、指図して陣営を強固に整えたので、近日中に馬を納めること、信州の戦陣については、延引するに至った事情を、改めて御理解してもらうため、この機会を捉えて要説すること、能州畠山については、神保を後援しているため、一戦交えるつもりでいたところ、彼方は敵対の意思がない旨を、なりふり構わず示していること、一体この景虎は助力を求められれば、如何なる勢力であっても、ひたすら公正に手を差し伸べ、旧来より緊密な朝倉方(越前国朝倉氏)と連帯して北国の安寧を実現させたいこと、また改めて様々な用件を連絡すること、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』205号「佐竹江 参」宛長尾「景虎」書状写)。


越中国からの帰陣後、古志郡内の領主に地下鑓(農兵)の員数を精査させると、5月9日、旗本衆・栃尾本庄氏の有力被官衆である大関勘解由左衛門尉定憲・渡辺将監 綱・大関平次左衛門尉実憲・大河戸市介忠繁・山沢与三郎 兼・奉納入道丸・金井修理亮 重らが、本庄玖介(本庄新左衛門入道宗緩(実乃)の世子。越後国古志郡の栃尾城主)・宇野左馬允(玖介の補佐役であろう)へ起請文を提出し、このたび当郡における御鑓の御穿鑿によって、我々の自領における所納高を洗いざらい御日記に書き留めて差し出す意趣であること、一、御軍役や御要害普請などについては、いささかも不正の嫌疑をかけられないように義務を果たすこと、一、玖介に御指図された際には、何事であろうとも奮励して取り組むこと、これらの条々を神名に誓っている(『上越市史 上杉氏文書集一』206号「本庄玖介殿・宇野左馬允殿 御中」宛「大関勘解由左衛門尉定憲・渡辺将監 綱・大関平次左衛門尉実憲・大河戸市介忠繁・山沢与三郎 兼・奉納 入道丸・金井修理亮 重」連署起請文)。

13日、年寄四人衆の下田長尾遠江守藤景(譜代衆。越後国下田(高)城主)・斎藤下野守朝信(同前。同赤田城主)・柿崎和泉守景家(同前。同柿崎城主)・北条丹後守高広(同前。同北条城主)が府内に条目を発し、当府の町人については、当家は長年にわたって臨時の課役も新規の課役も一切を仰せ付けにならなかったが、それでも皆々が日増しに困窮しているというので、困窮する町民への御慈悲の心から、国府の威容を保つ必要から、皆々の困窮に歯止めをかけるため、古来から課されてきた諸役ならびに地子(宅地税)などを、これから五年間は御免除されること、一、寺社領の地子については、町民が寺社に納めるべき借地料を、当家は御免除されたが、寺社においては、当家相伝の地から相当分の替地を御寄進されるので、これまで通り国家安全の祈念ならびに恒例の祭祀と堂社の修造などを、厳密に務めるべきこと、一、給人方(家中)領の地子については、やはり、町民が給人方に納める借地料を、当家は御免除されたが、給人方においては、当家相伝の地から相当分の替地を宛行われるので、これまで通り軍役奉公を不足なく務めるべきこと、一、府内湊の船頭については、常に様々な御用を務めてくれたが、今後は自他国の商船が容易に出入りできるように、船頭の皆々は勿論、役所の依頼で運行する商船に課されていた諸役も御免除されること、この補足として、輸入品の鉄に課されていた役銭も御免除されること、ただし、二階堂・青苧座(越後布を取り扱う組合組織)の両所に加盟する船頭ばかりは、船内の臨検を受けて、これまで通り輸出品の青苧に課されていた規定の役銭を納めるべきこと、一、清酒・濁酒を商う業者についても諸役を御免除されること、一、麹を商う業者についても諸役を御免除されること、御用による雪害対策(雪垣設置・除雪など)の義務を御免除されること、ただし、宿送りだけは、これまで通り務めるべきこと、一、馬方(馬による運送業者)については、その高額な運賃に自他国の諸商人が、はなはだ難儀しているそうなので、直ちに現行賃金での請求を取り止め、伝馬問屋(運送仲介業者)と商人衆の間で取り決めた額の賃金を請求するべきこと、ただし、伝馬問屋方については、これまで通り仲介料に課された規定の役銭を納めるべきこと、一、薬座(医薬品を取り扱う業者の組合組織)が若林に納めていた商品分の課税を御免除されること、一、各種商品の売上高に応じて課された役銭を御免除されること、一、茶を商う業者についても諸役を御免除されること、一、これまでの府内に於ける地子などの徴収権を失う寺社・給人方に対し、当家が相当分を他所において補填されるからには、もはや府内は御料所となったので、これからは郡司不入であること、よって、この条目の趣旨に則った別紙の御免除状と御掟状が配られるため、この両札の趣旨を遵守して奮励するべきことと、もしも遵守に難色を示す徒輩がいれば、容赦ない御咎めを受けることを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』207号 長尾「遠江守藤景」・斎藤「下野守朝信」・柿崎「和泉守景家」・北条「丹後守高広」連署条目写)。

同じ頃、年寄四人衆の長尾遠江守藤景・斎藤下野守朝信・柿崎和泉守景家・北条丹後守高広が、府内の居多神社と八幡神社に制札を掲げ、両社内における生類の殺生、山林竹木の伐採、銃器の発砲を禁じ、これらに背いた徒輩は誰人であろうとも罪科に処せられることを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』208・209号 長尾「遠江守」藤景・斎藤「下野守」朝信・柿崎「和泉守」景家・北条「丹後守」高広連署制札写)。


6月2日、関東管領山内上杉光哲の関東復帰の準備に奔走する下野国衆の足利長尾新五郎政長(足利長尾但馬入道禅昌(当長)の世子。下野国足利城主)が、相州北条軍に本拠地の上総国久留里城(望陀郡)を攻囲されている房州里見家の宿老中へ宛てて書状を発し、本来であれば緊密に連絡を入れるべきところ、その領域への通路が途絶しており、心ならずも無沙汰してしまったこと、そちらの御様子を正木大膳亮方(実名は時茂。上総国衆で里見家の家宰でもある。上総国小田喜城主)から詳報されたこと、ここは敵方へ攻勢を仕掛けられて御奮戦されるべきこと、当口においては、いささかも別状はないので、御安心してほしいこと、来秋に挙行される戦陣の全容を屋形(山内上杉光哲)が提示されること、この段を(房州里見義堯の)御意を得られるように、しかるべく取り成してほしいこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 房総編二』1012号「正木大膳亮殿」宛「長尾新五郎政長」書状写)。


※ 『戦国遺文 房総編』は、この文書の宛名は検討を要するとしている。


7月2日、大納言広橋国光から女房奉書の副状が発せられ、 禁裏御修理料として一所を御進上される旨を、(景虎の)奉行衆から知恩寺(岌州。京都百万遍知恩寺の住持)と拙者(広橋国光)に対して申し上げられたこと(6月18日に京着した)、直ちに 上奏したところ、叡慮は格別に御喜びであること、その祝儀として、めでたくも赤地の金襴一端と引合紙十帖が贈られること、詳細については女房奉書で示されること、同じく使者の速水右近大夫(有益。広橋家の内衆)に申し含めたこと、これらを恐れ謹んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』210号「長尾弾正少弼殿」宛広橋「国光」副状)。

これから間もなくして速水有益は越後国に下ったが、禁裏修理料の上納は来春に見送られるところとなり、9月20日には献上品の越後布十端を携えて京都に帰着している(『越佐史料四』 御湯殿上日記)。



永禄3年(1560)8月 越後国長尾景虎(弾正少弼)【31歳】


このたび山内上杉光哲(五郎憲政・憲当)を奉じて関東へ出馬するため、25日、留守衆に任じた桃井右馬助義孝(一家衆。越後国頸城郡の鳥(富)坂城主か)・御屋敷長尾小四郎景直(景虎の近親者。譜代衆)・黒川竹福丸(のち四郎次郎平政。外様衆。越後国蒲原郡の黒川城主)・柿崎和泉守景家(譜代衆。越後国頸城郡の柿崎城主)・長尾源五殿(譜代衆)へ在陣留守中掟書をもって、一、留守中の各将は、率先して任務に当たるのはもとより、軍役方については、その身分に相応しい、ひときわ過当の人数を駆り出して、しっかり在府されるべきこと、一、府城春日山の要害機能の保持に努められるべきこと、一、諸郷から徴用する人脚については、それぞれの郷司(里長)と小使に対し、検見一名を差し添えて検分に当たり、厳密に把握されるべきこと、但し、五十公郷(頸城郡)は免除すること、一、万が一にも不測の事態が起こった際には、頸城郡内の地下人を徴用して城内に配備されるべきこと、一、勝手放題に無道狼藉を働く徒輩がいたら、誰彼構わず直ちに処断されるべきこと、もしも情にほだされて罪人を匿った主人には、帰陣後に厳しい処分を課すこと、一、留守衆のうちで、災禍を放置したまま、適切な対処を怠った者がいたら、かばい立てせず、速やかに関東陣へ注進されるべきこと、一、何事においても留守衆の皆々で話し合い、善悪を見極めて対処されるべきこと、もしも強情を張って留守衆の結束を乱し、自分勝手に振舞う者がいたら、かばい立てせず、検見の者共をもって、その不届き者の名を注進されるべきこと、信州については、物見衆を輪番で絶え間なく活動させて敵情に気を配り、信濃衆の高梨源太方(信濃国飯山城主)を支援されるべきこと、一、府城の山林に生える竹木を伐採してはならないこと、以上の事項を遵守されるべきであり、検見として旗本衆の荻原掃部助・直江与兵衛尉(実綱)・吉江織部助(織部佑景資)を残留させるからには、是非を弁えて責務を果たされるように申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』211号「桃井右馬助殿・長尾小四郎殿・黒河竹福殿・柿崎和泉守殿・長尾源五殿」宛長尾「景虎」掟書【花押a3】)。

同日、府内代官の蔵田五郎左衛門尉(実名は秀家か)へ直書をもって、先頃、奉行衆に指示して府内掟以下を定め、条書にして制札を府内に掲げたところ、ともすれば町人衆は吾分(蔵田五郎左衛門尉)の指導に違背しているそうで、はなはだ不心得な態度であり、何はさておき、今次の在陣留守中において、あるいは権家(寺社方)の威光を利用したり、あるいは主人への軍役を務めると言い張ったり、何事に関しても町屋に寄り集まって逆らう徒輩がいれば、誰彼構わず処断するべきこと、このような徒輩に情けを掛け、万が一にも見逃した場合には、吾分を問責すること、これらを厳しく申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』212号「蔵田五郎左衛門尉殿」宛長尾「景虎」判物写【花押a3影】)。

この8月下旬のうちに、関東へ向けて出馬する。これには越中国味方衆の椎名右衛門大夫康胤(越中国松倉城主)も参加している(『勝浦市史 資料編 中世』 147号 椎名康胤書状写)。



永禄3年(1560)9月12月  越後国長尾景虎(弾正少弼)【31歳】


上・越国境を越えると、9月5日、上野国沼田荘(利根郡)に着陣する。


6日、足利長尾但馬入道禅昌(但馬守当長。新五郎政長の父)が、小田喜正木大膳亮時茂へ宛てて書状を発し、去る時分に貴札が寄せられたので、恐悦していること、昨5日に屋形(山内上杉光哲)が沼田荘まで進陣されたこと、当方面が平穏を取り戻すのは間もなくであること、これまで何度も御様子を伝えられている通り、そちらの戦線においても、御油断なく手立てを講じられるべきこと、これらについては使者が詳述するので、(里見義堯の)御意を得られるように、しかるべく取り成してほしいこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 房総編二』1016号「正木大膳亮殿」宛「長尾但馬入道禅昌」書状写)。

19日、関東管領山内上杉光哲が、房州里見権七郎義堯へ宛てて書状を発し、先頃に寄越された使僧は長逗留したので、これから立ち戻って越国の様子を、事細かに報告するであろうこと、このたび当家との筋目に従って景虎を供奉させ、いよいよ関東に帰還したところ、上州の旧臣が揃って先忠に復したこと、この絶好の機会を捉えて、その戦線においても、すぐさま攻勢にでられるべきこと、委細は彼の使僧が口上に付与すること、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 房総編二』1017号「里見権七殿」宛上杉「光哲」書状写)。

27日、関東管領山内上杉光哲が、上野国赤城山三夜沢神社(勢多郡)の宮司である奈良原紀伊守に証状を与え、このたびの関東越山に伴い、当社に立願の子細があるにより、今後は祈願所として祈念に精励することを求めた一方、望み通り社領における不入権を認めることを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』213号「赤城山大夫 奈良原紀伊守殿」宛上杉「光哲」安堵状 封紙ウハ書「赤城山大夫 奈良原紀伊守殿 光哲」)。


9月中に上野国の明間(通説では碓氷郡秋間とされるが、吾妻郡内の城館らしい)・岩下(吾妻郡)沼田(利根郡)といった相州北条方の諸城を攻め落とす。取り分け沼田城攻略では、数百名の城兵を討ち取り、城代の沼田北条孫次郎康元(相州北条家の一族衆である玉縄北条左衛門大夫綱成の次男)を敗走させた。沼田康元は上野国高山城(緑野郡)に入った。

こうした戦況により、相州北条家に従属していた上野国衆の白井長尾孫四郎憲景(上野国白井城主)・惣社長尾能登守(実名は景総か。同惣社(蒼海)城主)・箕輪長野信濃守業正(同箕輪城主)が帰属してきた。さらには厩橋長野弾正少弼入道道賢(上野国厩橋城主)も帰属してきたので、ひとまず厩橋城に入った。

同じく上野国衆の横瀬雅楽助成繁(同金山城主)が領する新田荘に一勢を攻め入らせたところ、相州北条家の重臣である清水太郎左衛門尉康英・同新七郎父子らの軍勢と激戦に及ぶ。その後、清水親子は上野国緑野郡の高山城に後退している(『群馬県史 資料編7』3694号 清水正花軍功覚書)。

10月初頭に横瀬雅楽助成繁を服属させると、この6月以前から山内上杉光哲の関東復帰の準備を進めてきた下野国衆の足利長尾但馬入道禅昌と合流して上野国那波要害(那波郡。上野国衆・那波氏の居城)を攻める。


こうしたなか、10月2日、小田喜正木時茂から、越後国長尾家の年寄中へ宛てて書状が発せられ、敵方が久留里に張陣しているので、関東御越山を請願したところ、すぐさま先月上旬に御旗を進められ、明間・岩下・沼田の各城を攻め落とされて、北条孫次郎(沼田北条康元)以下、主だった者を数百人討ち取られると、白井・惣社・箕輪が服属を懇願してきたとの風聞が流れており、めでたく思われること、今まさに時茂の長年抱いてきた宿願が果たされる機会を迎えており、ついには関東御静謐のための御計策を即行されて、必ず御落着されるべきであること、またさらには、昨年の御上洛の折に 公方様から裏書御免許されたそうで、喜んで規範に則らせてもらうこと、よって、これらを申し含めた使者に詳述させるので、(景虎の)御意を得られるように、しかるべく取り成してほしいこと、これらを恐れ謹んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』214号「越府 人々御中」宛正木「時茂」書状写)。


下野国足利荘(足利郡)の鑁阿寺から戦勝を祈願されると、9日、取次の北条高広(丹後守)が、鑁阿寺へ宛てて返書を発し、このたび景虎へ当地在陣(上野国那波陣)の成就を御祈念した御巻数を進上されたので、すぐさま披露に及んだところ、心地良く満足されたこと、取り分け愚拙(北条高広)にまで抹茶を贈って下さり、ひたすら恐悦していること、爰元に用所があれば、遠慮なく申し付けてほしく、いくらでも手配すること、これらを恐れ謹んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』215号「鑁阿寺 御衆中」宛「北条 高広」書状)。


同日、長尾前但馬守当長(号禅昌)が、鑁阿寺へ宛てて返書(謹上書)を発し、当陣の成就のために御祈念を精誠されると、同名景虎へ御巻数ならびに酒肴を進上されたので、覚えがめでたいこと、この当長にまで酒肴を贈って下さったので、賞味に預かること、いささかも陣中に支障はなく、別働の越後衆が続々と着陣し、城方(那波城)はかなり追い詰められているように見えるので、落城するのは間もないであろうこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』216号「謹上 鑁阿寺 御衆中」宛長尾「前但馬守当長」書状写)。


11月12日、関東味方中で武蔵国衆の市田某(深谷上杉氏の一族。武蔵国市田城主)へ宛てた条書を使者に託し、近年の御知行方について、一、藤田・秩父領(武蔵国榛沢郡・秩父郡)のこと、一、広田・河田谷一跡(武蔵国衆の広田・河田谷氏)のこと、一、茂呂土佐守方(武蔵国衆・茂呂顕季。武蔵国茂呂城主)の領分のこと、一、市田領(武蔵国大里郡)のこと、一、小田助三郎方(武蔵国衆。武蔵国埼西城主)の領分のこと、一、相州の御経略を遂げられた上でのこと、これらの条々を間違いなく保証することを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』217号「市田殿」宛長尾「景虎」条書写)。

29日、下野国佐野荘(安蘇郡)の龍渓寺へ宛てて書状を発し、このたび憲当(上杉光哲)の入国に供奉して当口に在陣中であること、常・野両国の諸家中は、これまで何度も催促しているにもかかわらず、遠境ゆえか、一向に参陣してこないこと、そのような有様なので、御面倒ではあるが、彼の口へ赴いて各々の説得に当たられるとともに、上・武両国の衆は悉く先忠に復した様子について、詳しく御見聞された趣旨を御伝達願いたいこと、これらを恐れ敬って伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』218号「龍渓寺 玉床下」宛長尾「景虎」書状写)。


この頃、関東味方中で武蔵国衆の成田長泰(下総守。武蔵国忍城主)が、相模国鎌倉比企谷(鎌倉郡)の妙本寺からの要請に応じて制札を発し、寺中における当軍勢の濫妨狼藉を停止し、これに違犯した徒輩がいれば、誰彼構わず罪科に処することを申し渡している(『埼玉県史 資料編6』285号「成田長泰」制札)。


12月に入り、越後衆の一軍をもって高山城に拠る沼田北条孫次郎康元、清水太郎左衛門尉康英・同新七郎父子らをまたもや敗走させて、自ら攻め立てていた那波城を陥落させた。

一説にはこのあと、厩橋長野弾正少弼入道道賢の嫡男である彦太郎が、重病の父に代わって厩橋衆を率いて参陣し、景虎への目通りを待って城外の河原で控えていたところ、突然の放れ馬が起こした混乱によって、城外の越後衆と厩橋衆の双方共に相手が攻め掛けてきたと誤解したことから戦闘になり、彦太郎とその補佐役の大胡左馬允(長野道賢の叔父か)をはじめとする厩橋衆の過半が討ち取られたといい、この知らせを受けた長野道賢は越軍の襲来を覚悟して厩橋城に拠って抵抗することを決めたが、越軍の襲来前に道賢は没してしまったので、遺された次男の藤九郎(彦九郎か)と三男の彦七郎、重臣の大胡某・上泉伊勢守らは協議の結果、那波城の景虎に投降したという。


※ 厩橋長野氏の動向については、久保田順一『中世史研究叢書6 室町・戦国期上野の地域社会』(岩田書院)と栗原修『戦国期研究叢書6 戦国期上杉・武田氏の上野支配』(岩田書院)を参考にした。


12月14日、関東味方中で武蔵国衆の岩付太田資正(美濃守。武蔵国岩付城主)が、武蔵国江戸石浜(豊島郡)の宗泉寺に制札を掲げ、寺中における当軍勢の濫妨狼藉を停止し、もしこれに違犯する徒輩がいれば、誰彼構わず罪科に処することを申し渡している(『埼玉県史 資料編6』288号 太田「資正」制札写)。

同じ頃、岩付太田資正が、武蔵国江戸品川(荏原郡)の妙国寺と本光寺に制札を掲げ、それぞれの寺中における当軍勢の濫妨狼藉を停止し、これに違犯する徒輩がいれば、誰彼構わず罪科に処することを申し渡している(『埼玉県史 資料編6』292号 太田「資正」制札、293号 太田「資正」制札写)。


18日、下野国衆の小山秀綱(下野国小山城主)へ宛てた条書(景虎は自らを可と署名し、小山秀綱を於と宛名書きしている)を使者に託し、一、このたび早々に御陣を引き上げられては、河内(利根川以東)を回復できないは確実であり、その重大さを御理解して対応に当たられるべきこと、一、佐(下野国衆の佐野氏)・桐(上野国衆の桐生佐野氏)が参陣してこないうちは、両皆川(下野国衆の皆川一族)も参陣を見合わせるのは明白であること、一、このたび両皆川の去就に是非を付けられなければ、佐(常陸国衆の佐竹氏)・宮(下野国衆の宇都宮氏)が両皆川と事を構えるのは必然であること、この補足として、御手前(小山秀綱)にとっても優先課題であること、一、もしも野州衆が参陣してくる情報を耳にされた時には、野州衆との御取り成しに当たってほしいこと、この補足として、当戦線の状況のこと、一、今般の野州口への働き掛けについては、あくまでも極秘に取り計らわれるべきこと、以上の事柄を伝えた。なお、両三度にわたって申し伝えた条々を、よくよく勘案して御対応に当たってもらえれば、めでたく喜ばしいことを加えて伝えた(『戦国遺文 下野編一』659号 長尾景虎覚書)。


※ この文書の解釈については、黒田基樹氏の論集である『戦国大名と外様国衆』(文献出版)の「第十一章 桐生佐野氏と阿久沢氏の研究」を参考にした。


24日、岩付太田美濃守資正(武蔵国岩付城主)へ宛てて書状を発し、このところ房州口の状況が伝わってこないため、正大(小田喜正木時茂)へ宛てて書状を送るので、(太田資正から)送り届けてもらいたいこと、正大は下総の原方(原胤貞。下総国衆・千葉氏の族臣。下総国生実城主)と対戦しているそうであり、和睦については、依然として満足に交渉もできず、まとまる気配はないようであること、正大については、遠境とはいえ、長年にわたって格別な交誼を通じており、当方が原方へ支持を替えるつもりは微塵もないこと、さりながら、関東の安寧のために遺恨を捨てて無事を遂げられるように、しかるべく両者の仲裁に努めてもらいたいこと、何よりも正大を苦境に陥らせてはならないので、御説得に当たってもらいたいこと、なお、巨細は北条丹後守(高広)が申すこと、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』219号「太田美濃守殿」宛長尾「景虎」書状【花押a3】)。


27日、関東陣に従軍した年寄衆の長尾藤景と北条高広が、武州宝積坊(武蔵国榛沢郡の宝積坊)の求めに応じて証状を与え、榛沢郡内十箇村の年行事については、取り調べによって確認した六十年にわたる由緒を踏まえ、昨年7月29日に聖護院殿(京都聖護院門跡道澄か)が御落着させた趣旨に従い、間違いなく所管させることを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』220号「武州 宝積坊」宛長尾「藤景」・北条「高広」連署状写)。

吉日、下田長尾遠江守藤景・北条丹後守高広が、相模国鎌倉比企谷の妙本寺からの要請に応じて制札を与え、寺中における関・越諸軍勢の濫妨狼藉を厳重に停止し、もしこれに違犯した徒輩がいれば、誰彼構わず罪科に処することを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』221号長尾「遠江守」藤景・北条「丹後守」高広連署制札写)。



この間、相州北条氏に擁立された鎌倉公方足利義氏(母は北条氏綱の娘、妻は北条氏康の娘。下総国関宿在城)は、9月23日、下野国衆の那須修理大夫資胤(下野国烏山城主)へ宛てて返書となる直書を発し、越国の凶徒が国境を越えて沼田口に現れた事態について、丁寧に言上してくれたので、喜びもひとしおであること、義昭(常陸国衆の佐竹右京大夫義昭。常陸国太田城主)が善悪を弁えて不平不満を水に流し、当家の下知に従い、すぐにも南奥から軍勢を引き上げるように、(那須資胤が)説得に当たってほしいこと、氏康が出馬して凶徒に対向するので、上州の戦線は万全の態勢であること、さても格別な忠信を示してくれたので、ひたすら感悦していること、上州の戦況次第により、(那須資胤が)果たすべき対応を御指示されるので、即応できるように心掛けておくべきこと、これらを謹んで伝えている(『戦国遺文 古河公方編』849号「那須修理大夫殿」宛足利「義氏」書状)。

10月2日、下野国衆の小山弾正大弼秀綱(下野国祇園城主)へ宛てて直書を発し、取り急ぎ申し遣わすこと、このたび越国の凶徒が上州に乱入したので、近日中に動座するつもりであり、速やかに自身(小山秀綱)が参陣し、今こそ忠信を励むべきこと、詳細は簗田中務大輔(実名は晴助。鎌倉公方の宿老衆。下総国古河城主)が申すこと、これらを謹んで伝えている(『戦国遺文 古河公方編』850号「小山弾正大弼殿」宛足利「義氏」書状写)。

3日、那須修理大夫資胤へ宛てて直書を発し、取り急ぎ申し遣わすこと、このたび越国の凶徒が上州に乱入したので、近日中に動座するつもりであること、速やかに参陣して奮励されれば、ひとえに感悦であること、これらを謹んで伝えている(『戦国遺文 古河公方編』852号「那須修理大夫殿」宛足利「義氏」書状)。


越後衆の上野国沼田進攻に対応して武蔵国河越(入間郡河越荘)に着城した相州北条氏康(左京大夫)は、9月28日、常陸国衆の真壁安芸守久幹(常陸国真壁城主)へ宛てて返書を発し、(真壁久幹から)24日付の注進状が28日に到着したので、つぶさに披読したこと、このたび越衆が上州沼田谷に侵攻してきたので、当方も武州河越まで出陣したこと、万全な態勢を敷いているので、御安心してほしいこと、当戦線に異変があれば、直ちに連絡すること、 (足利義氏へ)御近辺の御用心などについて御助言されるべきこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 後北条氏編一』644号「真壁殿」宛北条「氏康」書状 懸紙上書「真壁殿 自河越」)。

10月4日、他国衆の横瀬雅楽助成繁(上野国金山城主)が越後・関東連合軍に帰属したことで、最前線に位置することになった他国衆の富岡主税助(上野国小泉城主)へ宛てて書状を発し、このたび横瀬が敵陣営に転じたので、その地(小泉城)が初口になったこと、いまこそ忠義を励む機会であること、鉄炮の玉薬を配給すること、さらに補充の要請があれば、改めて送り届けること、詳細は使者が申すこと、これらを謹んで伝えている(『戦国遺文 後北条氏編一』645号 北条「氏康」書状)。

また、別紙において、横瀬成繁に翻意を促すため、使者を派遣するので、その通行に便宜を図るように頼んでいる(『戦国遺文 後北条氏編一』646号 北条「氏康」書状)。

15日、富岡主税助殿へ宛てて書状を発し、その地(小泉城)の修築を万全に尽くすべきこと、大敵を撃退するための地勢については、当方としても本心から相談に乗ること、個々での攻撃は避けるべきであり、那波の地も苦戦するなか、当軍主力の編成も遅延しているため、その地に程近い味方中の茂呂因幡守(下野国藤岡城主)にも連絡し、敵勢に一当たりするように指示したので、其方(富岡主税助)も彼方(茂呂因幡守)と連動して、速やかに打って出るべきこと、詳細は使者の河尻が申すこと、これらを謹んで伝えている(『戦国遺文 後北条氏編一』650号 北条「氏康」書状)。


25日、鎌倉公方足利義氏が、奥州会津(黒川)の蘆名止々斎(盛氏)へ宛てて返書となる直書を発し、このたび懇切に言上してくれたので、喜びもひとしおであること、越国の凶徒が上州まで侵攻してきたこと、これにより関東の長尾一類両三人(足利・白井・惣社)が敵陣営に転じたが、何らの支障もないこと、氏康は武蔵国松山(比企郡)に在城し、敵陣に対する戦陣の強化に努めているので、安心してほしいこと、佐竹(義昭)と白川(陸奥国衆の結城白河晴綱。陸奥国白河城主)の抗争については、先頃に双方から代官をもって言上があったので、停戦を申し付けるため、双方に御使節を遣わしたこと、未だに滞留を続けている状況であり、何度か寄せられた報告によると、義昭が頑なに和睦を拒否しているそうで、ひたすら残念であること、日増しに陸奥国寺山城(白河郡)は苦境に追い込まれているらしいこと、懸命に晴綱の説得に取り組んでほしいこと、詳細は瑞雲院(周興)から申されること、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 古河公方編』854号「蘆名修理大夫殿」宛足利「義氏」書状写)。


甲州武田信玄(徳栄軒)は、信濃国上倉城(水内郡)の攻略と越後衆の打倒を期する(『戦国遺文 武田氏編一』712号 武田信玄願文)なか、17日、越中国一向一揆の上田藤左衛門尉へ宛てて書状を発し、先頃に当方が摂津国大坂(本願寺)へ遣わした使者が、間もなく越中に下着するとの連絡が飛脚によってもたらされ、もう今頃は国境を越えているとのこと、このたび越後の長尾が上州に乱入したので、北条氏康との連携し、すでに(信濃国奥郡へ)進軍中であること、これで景虎は身動きが取れず、もはや滅亡は疑いないこと、幸いにも御門跡(大坂本願寺の門主である顕如光佐)が御下知されたので、ここ最近、(甲州と越中国一向一揆が)何度も打ち合わせてきた筋目に任せ、御下知の趣旨を御門徒中と相談し、この機会を捉えて(越中国一向一揆が)神保(惣右衛門尉長職。越中国富山城主)と協力して越後へ侵攻するように、しかるべく取り計らってもらいたいこと、なお、詳細は使者の山田が口上すること、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』713号「上田藤左衛門殿」宛武田「信玄」書状写)。  



◆『越佐史料 巻四』(名著出版)
◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『群馬県史 資料編7 中世三(編年史料2)』(群馬県)
◆『勝浦市史 資料編 中世』(勝浦市)
◆『新編埼玉県史 資料編6 中世2 古文書2』(埼玉県)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第一巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第一巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 古河公方編』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 房総編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 下野編 第一巻』(東京堂出版)

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2 コメント

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上杉憲正 (つか)
2012-09-02 20:05:36
上杉憲正の事を上杉光哲と呼ぶ呼び名は知りませんでした。憲正の名をずっと使っていたと思っていたので驚きました。
 また形式的には謙信より上席(養父)の憲正が、長尾政景を通さないと謙信に直接連絡出来ないと言うのは、驚きです。乃至さんが本で書いていたように、最終的には憲正を家臣扱いするつもりだったのですかね。
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お詫び (こまつ)
2012-09-04 07:52:56
遅くなりまして、すみません。
この時の憲政は政景に直接的な取り次ぎを依頼したわけではないのです。憲政は謙信に直接連絡できたと思います。
まあ、謙信は外征中でなければ、憲政にご機嫌伺いもするでしょうから、それほど手紙での遣り取りは必要なかったかもしれませんが。
それにしても、大雑把に解釈し過ぎてしまいました。返信が遅くなりましたことと併せてお詫び申し上げます。
おかげで良い戒めになりました。
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