食道がんと闘う自然爺の活動

自然の中での暮らしに憧れ、自作の山小屋を起点に自然と戯れていたが、平成21年10月、食道・胃がんが見つかり手術。

『回想旅行記、パムッカレの石灰棚』

2014年03月30日 17時30分02秒 | 旅行

私が目玉としていたパムッカレには案外早く到着した。駐車場はヒエラポリス遺跡の中にあり、ここから石灰棚のある所へは20分くら

いの移動が必要だが、遺跡のど真ん中を歩いて行く。ヨーロッパ遺跡の典型的な大理石の柱や桁がゴロゴロしており、歩いている

道のすぐ傍を掘り返している所からも別の礎のようなものが顔を出していて、遺跡なんて珍しいものではない・・・こんな具合の中をテク

テクと歩く。

歩いて行けども石灰棚のような美しい物の欠片や雰囲気すら感じることのない所ばかり。そしてその神秘的な場所は突然に目の前

に開け、生まれてこのかた見たことのない景色に感動させられた。白い石灰棚に温泉水がかけ流しのようになっているから、水の入

れ替えがあり中に溜まっている水は澄んでいて青く見える。

白い棚の浅い湯船のような中に沢山の人がズボンをまくり上げて入っている。以前は靴を履いたまま観光していたが、石灰棚保護

の観点から靴を脱ぎ裸足になって石灰棚を歩くことになっているので、用意していたビニール袋に靴を入れて持ち歩く。美しい景色に

感動したばかりなのに随分と無粋な格好だ事。そうした場所に入ってみると、ぬるま湯くらいの温度で暖かいものではないが、周囲の

温度からすれば暖かさを十分に感じる。中央を流れる溝には勢いよく温泉水が流れていて、溝の淵に座り足湯をする人が沢山い

た。石灰棚は水との組み合わせだから、とても滑り易く移動する場合には、下の石に対して足の裏を真上から降ろして体重移動しな

ければならない。私たちがいる間に陽が落ちかけ、白い棚に赤い夕陽色で染められていた。

名残惜しく石灰棚を離れパムッカレ温泉なる施設に入ってみる。倒壊した柱や欄干のようなものが水中に見える温泉施設。つまり遺

跡に温泉が溜まりパムッカレ温泉となったもので、かのクレオパトラもここで入浴したと逸話がある。湯気は立っていないし、どう見ても

入りたい温泉には見えなかった。季節的にもう少し暖かい時期なら水着を着て温泉を楽しむ観光客も多いだろうが、いくら簡易施設

の中であっても今の時期だと寒中水泳までいかなくても覚悟が要ると思う。

時間があったので温泉から少し離れた場所に行って見たら、土を被った石灰棚が見えた。石灰棚の実態は土中にあり、私たちが

見ていたものは長い年月をかけて土が流され風雨で漂白されたものだった。かなり先の方まで土に汚れた石灰の層を見ることができ

た。再び駐車場に戻りバスに乗ってからも白と黒の層を見ることができ、この辺り一帯には未だ沢山の石灰棚が地中にあるのではな

いかと思う。景色を堪能しホテルに到着した時は、もう真っ暗になっていた。

今回の最大の目的場所は、日本から長時間かけて来る価値のあるものだったのはいう事はない。

                                                     遺跡の中のパムッカレ温泉


『住宅団地の高齢化』

2014年03月30日 17時29分07秒 | 日記

小さな自治体では既に昭和50年頃から人口減を予測し、その対策として住宅団地の造成により若い層の取り込み

を始めていた。今から思えば、こうした現象は少子高齢化による人口減の前兆であり、最初に現れるのは規模の小

さい所だったと頷ける。八雲でもその対策として住宅団地が開発され新しく入居した人たちにより人口増をもたら

し暫くの間は、条件の厳しい自治体からは羨ましがられていた。この団地もその一つで大よそ100世帯の若い人た

ちが住み活気に溢れる住宅団地だった。人が流入して人口増になった一部の自治体は一応の成果を上げたことにな

るが、国全体からみれば同じパイの中ある駒が何処に移動するかだけのことでしかなく、国の対策は何もなされて

いなかった事が露呈する。

対策が一段落する内に町の人口は落ち着き始め、その後の旧村民と新住民の人口比率は新住民が逆転してしまった。

という事は、旧村民だけの人口構成だったなら人口減のスピードはかなりのもので、高齢化ももっと深刻なものに

なっていたかもしれない。また別の見方をすると町や地域に根付いて来なかった人たちが増え、従来からの慣習や

伝統が継承されなくなり、町のIDが失われつつあることをも意味し、町の名は残るが中身は別物になってしまう

可能性もある。

功罪は別として切り札のはずの私たち住宅団地の住民も、いつしか歳を重ねて40年が経過してしまうと気づけば

自身が高齢者の真っただ中にいる。子育て世代の集団だから幼少・中学生の数は100人を越えるほどで、本当に集

団登校の姿を見ることができた。人数が多いから何班かに区分けして上級生が下級生の面倒を看ながら、雨の日も

雪の日も学校まで歩いて行っていた。団地内の行事も盛んで運動会、遠足、盆踊りなどの他に区別のレクと、年中

ワイワイと言いながら忙しくしていたものだ。

綾小路きみまろの台詞ではないが『あれから40年・・・』

当時の児童たちの大半は親元を巣立ち、別の地に居を構えた結果、年老いた両親はこの団地を終の棲家と考えてい

るのではないかと思う。今日は自治会の総会。この1年間勤められてきた役員、来年度の役員から出る言葉は『年々

よる年波に・・・』が多くなり、周りを見渡せば共白髪ではないが頭の白くなった人、薄くなった人ばかりになり、

老老介護ならぬ老々世話役で相身互いを補い合うことをせざるを得ないことを本当に痛感した。

しかし、住んでいるのは若い世帯の人たちもいる。年寄りが多いのは事実だが、物事を後ろ向き、消極的に取り組

む姿勢ばかりでは、これから自分たちの時代を築こうとしている若い人の元気を削いでしまう。老害はあってはな

らない。出来ることに限りはあろうが、年の精で負への道に転げていくことは避けたいと思う。


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