小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

「教育、教育」と騒ぐなら金を使え

2017年05月09日 01時41分47秒 | 社会評論
      




5月1日付の産経新聞「産経抄」によりますと、日本の小、中学校の先生の労働時間は世界でも突出して長く、小学校教諭の33%、中学校教諭の57%が残業時間80時間を超えており、「過労死ライン」を上回っているそうです。
先生の多忙というと、平教員の忙しさをイメージしがちですが(それももちろんあるのですが)、なかでも多忙を極めるのは、副校長、教頭で、調査報告書の作成、休んだ教諭のフォロー、会計業務などあまりの激務に疲れ果て、教諭への降格を願い出るケースが跡を絶たないのだとか。

小中学校教師の忙しさは今に始まったことではなく、昔から部活の顧問として土日・夏休み返上で駆り出されるとか、テストの採点は家に持って帰って深夜までとか、年間いくつもある学校行事の指導とか、たいして意味のない研修会への参加強制とか、問題生徒の管理監督やいじめ防止への配慮とか、モンスターペアレンツへの対応などなど、とにかく息つく暇もないとの訴えはよく聞かされてきたものです。
ところが、世間の視線は意外とこうした実態に対して冷ややかで無関心です。それはなぜでしょうか。

第一に、教師は公務員で、給与もそこそこ高く安定しているという点が挙げられます。
世の中にはもっと貧しい人やきつい仕事に耐えている人がいる、贅沢な悩みだといったルサンチマンに根差すまなざしを受けやすいのですね。ことにデフレ不況下の今日では、こうした声が高まっていると思われます。
しかしある職業が所得面や雇用面で安定しているという事実と、その職に固有のきつさがあるという問題とは別です。教師のきつさとは、授業をしっかりこなすという本業のほかに、やたらと生活指導や文書作成などの一般事務や部活動顧問など、本来の職務ではない仕事で埋め尽くされることからくるストレスなのです。いわば多種の肉体労働と神経労働がどっと重なってきて、それを毎日捌かなくてはならないところに、このストレスの原因があります。

第二に、土曜も隔週で休みだし、夏休みもあるので優雅なものじゃないかといった先入観があります。
しかしこれは、上に述べたように、実態とは著しく異なる偏見です。学校という特殊な現場の日常をよく知らない人は、こうした先入観でものを判断すべきではありません。

第三に、教師という職業に対する世間の期待過剰があります。
「教師は聖職者」という観念がいまだに残っているようです。
どの親にとってもかけがえのない子どもの教育と生活をあずかるのですから、大切な仕事には違いありません。しかし教師も能力や包容力に限界のあるただの人間です。
何もかも教師に背負わせて、ちょっと学校で問題が起きると、担任の責任、校長の責任と大げさに騒ぎ立てる風潮を改めなくてはなりません。
大事なことは、今の学校に何ができて何ができないか、一人の教師の職分と管轄範囲はどれくらいかということをはっきりさせて、その認識をみんなができるだけ共有することです。

ちなみに、教員志望者は年々減少の一途をたどっています。また教員志望者の中でも、こんなに忙しい日本の教員にはなりたくないと思う人が6割を超えているというデータもあります。
http://benesse.jp/kyouiku/201603/20160317-1.html
http://diamond.jp/articles/-/57792

ではどうして日本の小中学校教師はこんなに忙しいのでしょうか。
上に記したように、本来の職務でないことを背負わせられているという困った「文化伝統」の問題もありますが、これらのうちの無駄な部分を削ることができたとしても、ある重大な理由から、教師の多忙さはさほど減らないだろうと思われます。
その重大な理由とは、国が教育にお金をかけていないという事実です。
日本の公教育支出は、GDPの3.5%で、OECD諸国の中で、何と6年連続で最低なのです。
http://editor.fem.jp/blog/?p=1347

日本人の多くは、教育が大事だ、教育が大事だと口癖のように言います。歴史認識、理科離れ、平和憲法、公共心、グローバリズムにエネルギー、何でもいいですが政治問題や社会問題を話していて、現実がなかなか変わらない嘆きに達して行き詰まると、たいていの人が言うのです――「最終的には教育の問題だよね」。
これは要するにただの陳腐な「オチ」であって、教育をどうするのか、何かヴィジョンがあるわけではなく、あきらめや逃げの言葉をつぶやいているにすぎません。教育のことなど誰も本気で考えてはいないのです。

もし本当に教育が大事だと考えているなら、まずはこの恐ろしく貧困な教育投資の実態を何とかしなければなりません。
そして投資をどこに差し向けるか。もちろん、まずは人材投資です。
教師の数を増やすだけではなく、前述のような教師本来の仕事ではない部分を担える人材を雇用して、先生が余裕をもって本業に専念できるような環境を整備すること。

環境と言いましたが、物理的な意味での環境整備も非常に大切です。
これは一例にすぎませんが、いま日本の公立小中学校で、エアコンがどれくらい整備されているかみなさんはご存知ですか。
何とわずか三割です。
それも地域間格差が激しく、首都東京は八割ですが、暑いはずの九州は二割に満たないところもあります。
http://xn--88j6ev73kngghpb.com/%E5%B0%8F%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%81%AE%E3%82%A8%E3%82%A2%E3%82%B3%E3%83%B3%E8%A8%AD%E7%BD%AE3%E5%89%B2.html
かわいそうな九州の子どもたち。これで、子どもを大切にしている国と言えるのでしょうか。

文科省は二流官庁ですから、予算が十分に取れない苦しさもあるでしょう。
財務官僚はきっと日本の将来を担う世代のことなどに関心がなく、文科省の管轄事項を、それが喫緊の課題ではないという理由で、無意識に蔑んでいるのだと思います。
いま公立の小中学校教育に投資するとしたらどこにお金を使うべきか。小3から英語教育を、とか、道徳教育を正課に、など、百害あって一利なしの施策にではありません。基礎学力を徹底させるために、ゆとりのある人的物的環境を整えることに投資すべきなのです。これは教育界におけるソフト面、ハード面のインフラ拡充と言えましょう。
文科省は、グローバリズム迎合やヘンな精神主義を捨てて、具体的な窮状を訴え、改良策を引っ提げて財務省に予算要求を迫るとよいでしょう。「子どもや先生がかわいそうなんです」――これなら血も涙もある(と思いたいですが)財務官僚も、少しは耳を傾けてくれるかもしれません。