内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「身体がどこからはじまり、外部の自然がどこで終わるのか、といったことを定義することはできない」 ― ホワイトヘッド『思考の諸様態』

2021-08-10 21:43:42 | 雑感

 午前4時48分から6時18分までの1時間半で15キロ走る。多分もうこのペースで2時間走ることは難なくできると思う。五月半ばに水泳のかわりにウォーキングを始めたときには想像すらできなかったことだ。今日で35日連続走っている(数日のウォーキングを含む)。毎日走りながら、それが自ずと日々の自分の体の調子を観察することにもなっている。自分自身の体を使って運動の効果を実験しているようで面白い。
 ジョギングから帰ったら、すぐに靴底を洗う。森の中の土の道を走らなければ、それほど汚れるわけではないが、それでも路上の砂利やゴミなどが靴底のパターンの間に入り込んでいる。それらをすべて取り除く。仕上げにムース状のクリーナーを使うこともあるが、ブラシを使って水洗いすることが多い。ときどき洗剤を使うこともある。
 佐野眞一『旅する巨人』読了。同じ著者による『宮本常一が見た日本』(ちくま文庫 2010年)を読み進める。すでに並行して読み始めていた。三分の一ほど読み終える。前著と重複する箇所も多いが、前著以後に参照した資料が取り込まれ、前著と同じ話題を取り上げている箇所でもより詳細な記述が見られることもあり、興味尽きない。
 今日もホワイトヘッドの『自然の概念』(1920)『科学と近代世界』(1925)『過程と実在』(1929)『観念の冒険』(1933)『思考の諸様態』(1938)を英語原書で拾い読みしながら、非連続の連続について考え続ける。

For example, our bodies lie beyond our own individual existence. And yet they are part of it. We think of ourselves as so intimately entwined in bodily life that a man is a complex unity—body and mind. But the body is part of the external world, continuous with it. In fact, it is just as much part of nature as anything else there—a river, or a mountain, or a cloud. Also, if we are fussily exact, we cannot define where a body begins and where external nature ends. 

Modes of Thoughts, The Free Press Paperback Edition, 1968, p. 21.

たとえば、われわれの身体は自分自身の個的存在を超えて位置している。けれども、その身体は、個的存在の一部なのだ。われわれは自分のことをこう思っている。つまり、人間というのは、身体で営む生活ととても親密にからみあっているから、身体と精神との複合体だ、と。だが、身体は外界の一部なのであって、外界と連続している。実際、身体は自然のなかのなにか、たとえば、川とか、山とか、雲といったものと同じように、まさに自然の一部なのだ。また、たとえわれわれが過度に厳密になろうとしても、身体がどこからはじまり、外部の自然がどこで終わるのか、といったことを定義することはできない。(『思考の諸様態』『ホワイトヘッド著作集13』松籟社、34頁)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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