内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

心からの声に耳を傾ける ― ドナルド・キーン『百代の過客』『続 百代の過客』

2023-06-18 07:50:53 | 読游摘録

 日本人が書いた日記を包括的に扱った著作として、ドナルド・キーンの『百代の過客』『続 百代の過客』がまず思い起こされる。どちらももと朝日新聞の連載が基になっており、朝日選書として前者が1984年、後者が1988年に刊行され、同年にそれぞれ愛蔵版も朝日新聞社から刊行されている。キーンは英文で原稿を書き、金関寿夫がそれを順次日本語に訳して連載は継続された。英語原文も、それぞれ1989年と1995年にアメリカで刊行されている。
 私の手元にあるのは、新潮社の『ドナルド・キーン著作集』第二・三巻(2012年)に収められた版である。数年前に中古本で入手したのだが、ほぼ新本状態の美本、しかもかなり安価で購入できた。A5版のしっかりした造本も渋い装丁も気に入っていた。購入してしばらくは、いつでもすぐに手に取れるようにと、仕事机左脇の小ぶりの本棚に並べておいた。
 が、ある日、赤ワインがなみなみと注がれたグラスをその本棚の方向にひっくりかえしてしまい、同じ棚に並んでいたその他数冊とともに、この二冊にもたっぷりとワインを浴びせかけてしまった。幸い、本文にまでは染み込まなかったが、カヴァーと天と小口と見返しには、今となってはセピア色に変わった痕跡が残っている。両書を紐解くたびにそれを見ては、今でも自分の不注意に臍を噛んでいる。
 キーンは、『続 百代の過客』「序 近代日本人の日記」のなかで、彼が検討した明治時代以降の膨大な日記についてこんな問いを立てている。「一体全体なぜ多忙な人間が、来る日も来る日も、こうした無味乾燥な事実を記録するのに、大事な時間を費やしたのだろうか。」(17頁)
 この問いに対する一つの答えとして、「いかに没個性的な日記であろうと、日記を付けるという長い伝統が存在していたこと」を挙げているが、これだけでは十分な答えにはなっていないことはキーン自身自覚している。むしろ、その答えを探すためにこそ、一つ一つの日記を丹念に読んだのだろう。
 しかし、その答えを探すことが本書の主たる目的ではない。「過去に生きた人々の声をもっとはっきり聴き取ろうと思えば、他のなにものにも増して、彼らが書いた日記を読むにこしたことはない」(18頁)。「過去に生きた人々の声を聴く」― これがキーンの日記探索の動機である。それは『百代の過客』からずっとそうであった。

取り上げた日記の中で私の関心を最も惹いたものは、日記作者その人の声にほかならなかった。私はいつも、なにか心からの声に耳を傾けようと努めた。表現された感情のいかんにかかわらず、単に熟達した文体ではなく、なにかはっきりと個性的な音色のようなものを聞こうとした。私はまた、文学史家が誰一人注目することのない日記の中にさえ、それを読む今日の読者が、何百年も昔に生きたその作者に突然一種の親近感を抱くような、なにか感動的な瞬間がないかと探し求めた。(『続 百代の過客』10頁)

 『続 百代の過客』は明治期の日記を対象としているから、書かれた当時と何百年も隔たりがあるわけではなく、しかも「近代化」しつつある日本の姿がそこに垣間見られるのだから、遠い過去の人たちに突然抱く親近感のような新鮮な驚きはないかも知れない。
 「私たちは、ことさら私たちとの類似性を探す必要はない。作者自身が私たちに似ているだけではなく、あまりに近すぎて、手を伸ばせばほとんどさわれるくらいだからである。」(11頁)
 これにはちょっと同意しかねる。明治期の日記も私たちに新鮮な驚きを与えるのに十分なほどすでに遠い過去の記録になっていると私は思う。だからこそ興味深い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿