内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

夏休みのオンリー・サイテーション・モード(2)「いちど選んでしまえば、ひとはおのれの生活の偶然に満足し、それを愛するようにもなる」― サン=テグジュペリ『夜間飛行』より

2024-07-10 11:05:01 | 読游摘録

 以下はサン=テグジュペリの『夜間飛行』第一章からの引用である。

En descendant moteur au ralenti sur San Julian, Fabien se sentit las. Tout ce qui fait douce la vie des hommes grandissait vers lui : leurs maisons, leurs petits cafés, les arbres de leur promenade. Il était semblable à un conquérant, au soir de ses conquêtes, qui se penche sur les terres de l’empire, et découvre l’humble bonheur des hommes. Fabien avait besoin de déposer les armes, de ressentir sa lourdeur et ses courbatures, on est riche aussi de ses misères, et d’être ici un homme simple, qui regarde par la fenêtre une vision désormais immuable. Ce village minuscule, il l’eût accepté : après avoir choisi on se contente du hasard de son existence et on peut l’aimer. Il vous borne comme l’amour. Fabien eût désiré vivre ici longtemps, prendre sa part ici d’éternité, car les petites villes, où il vivait une heure, et les jardins clos de vieux murs, qu’il traversait, lui semblaient éternels de durer en dehors de lui. Et le village montait vers l’équipage et vers lui s’ouvrait. Et Fabien pensait aux amitiés, aux filles tendres, à l’intimité des nappes blanches, à tout ce qui, lentement, s’apprivoise pour l’éternité. Et le village coulait déjà au ras des ailes, étalant le mystère de ses jardins fermés que leurs murs ne protégeaient plus. Mais Fabien, ayant atterri, sut qu’il n’avait rien vu, sinon le mouvement lent de quelques hommes parmi leurs pierres. Ce village défendait, par sa seule immobilité, le secret de ses passions, ce village refusait sa douceur : il eût fallu renoncer à l’action pour la conquérir.

 次に二つの日本語訳を示す。みすず書房版の山崎庸一郎訳(2000年)と光文社古典新訳文庫版の二木麻里訳(2013年)である。

エンジンの回転数を落としてサン・フリアンのほうに降下しながら、ファビアンは疲れをおぼえた。人間たちの生活に安らぎを与えているいっさいのもの、彼らの家、小さなカフェ、散歩道の並木が、彼のほうに大きくせりあがってきた。彼は、征服のタベ、帝国の領土のうえに身をかがめ、人間たちのつつましい幸福を発見する征服者のひとりに似ていた。ファビアンには、武器を置き、おのれの身のけだるさ、筋のこわばりを感じ取ることが必要だった。人間はまた、その貧しさによっても豊かであり、この地で、窓辺からもはや変わることのない光景をながめる単純な人間であることによっても豊かなのだ。この小さな村、それさえ彼は受け入れたかった。いちど選んでしまえば、ひとはおのれの生活の偶然に満足し、それを愛するようにもなる。それは愛とおなじように、ひとを制限してくれる。ファビアンは、この地にながく住み、この地でその永遠性の分け前にあずかりたかった。なぜなら、小さな町々で一時間をすこし、古い壁にかこまれた庭園を横切っただけで、彼にはそれらが、自分の外側で永遠につづいているように思われたからだ。いまや村は、搭乗員のほうにせりあがりながら、彼らに向かって身をひらいてきた。するとファビアンは、友情や、たおやかな娘たちや、白いテーブルクロスをかこむ団渠など、ゆっくりと永遠性のためにはぐくまれているいっさいのものに想いを馳せるのだった。いまや村は、はやくも翼すれすれのところを流れていた。もはや壁が守ってくれなくなった閉ざされた庭の神秘をあらわにしながら。ところがファビアンは、地上におり立ってみると、石壁のあいだにゆっくりと動くいくつかの人影以外になにも見なかったことに気づくのだった。村は、ひたすらその不動性によって、おのれの情熱の秘密を守り、その優しさを彼に拒んでいるのだった。その優しさを手に入れるためには、行動を諦めることが必要だったのだ。

サンフリアンに着陸しようとエンジンの回転数を落としながら、ファビアンは疲労感に襲われた。ひとの暮らしにぬくもりを添えるなにもかもが、自分にむけて迫ってくる。人びとが暮らす家、いきつけのカフェ、いつもの散歩道の木立ち。彼は、征服した宵闇のなかに立つ覇者に似ていた。みずからの帝国の領土に思いをはせ、そこに人びとのささやかな幸福を見出す征服者である。いまは武装を解いて、ものうい気だるさや、体のふしぶしの痛みを心ゆくまで感じる必要があった。みじめさのなかにあってなお、ひとは豊かでいられるからだ。ひとりの素朴な人間としてここに住み、窓の外に、もう二度と目の前から飛び去ることのない景色を眺めてみたいと思った。それがこのつつましい村であろうとも、自分はありのままに受け入れることができるだろう。ひとは一度なにかを選び取ってしまいさえすれば、自己の人生の偶然性に満ち足りて、それを愛すことができる。偶然は愛のようにひとを束縛する。ファビアンは末永くここで暮らし、永遠のなかから自分の取り分を得ようと望むこともできたろう。ほんのひとときを過ごしたちいさな街で、古びた壁のなかに囲まれた庭を通っただけでも、庭は自分の命とかかわりなく永遠につづくもののようにみえる。いま村は二人の乗員にむけてせり上がり、その眼前にみずからをひらいていた。友情、優しい娘たち、白いテーブルクロスのかかったなつかしい食卓、ゆるやかに永遠の時をかたちづくるそれらすべてにファビアンは思いをはせた。村はもう翼のすぐかたわらを流れていて、閉ざされた庭の神秘も、いまは壁に護られることなく見渡せる。だが着陸してみるとファビアンは、自分がほとんどなにも眼にしてはいなかったことに気づくのだった。そのまなざしに映ったものはただ、村の石壁のあいだを行き来するいくつかの人影の緩慢な動きにすぎなかった。この村はじっと動かないまま、その情熱を秘めつづけている。村は優しさを与えることを拒んでいるのだ。その優しさを手に入れようと望むなら、ファビアンは飛ぶという行動を断念するしかなかったろう。

 どちらも優れた訳だと思うが、一点、両訳に対して疑問がある。それは « on est riche aussi de ses misères » という一文についてである。山崎訳は misères を「貧しさ」、二木訳は「みじめさ」と訳している。しかし、まず、どちらの訳語も訳文の前後の文脈からしてややそぐわない気がする。それに、misères は複数形であり、その場合、「(種々の)気苦労、わずらわしさ、厄介ごと」という意味で使われることもある。ここはむしろこの意味で使われているのではないだろうか。とすれば、この一文、さまざまな気苦労・わずらわしさ・厄介ごともまた人生を豊に彩るものだ、という意になる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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