内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「人心は浮薄なるものなり」― 西田幾多郎の日記より

2023-06-17 06:39:32 | 読游摘録

 人はなぜ日記を書くのだろうか。作家や政治家その他著名人たちのなかには、後日他人に読まれることを前提として日記をつけ続けた場合もあるだろうが、後日人に読まれることを意識せずに、もっぱら自分自身のために書かれた日記も少なくないであろう。そのような私秘的な日記にこそ、書き続けた人の「素顔」が垣間見られていっそう興味深い。たとえ備忘録やその日の出来事の一行の記録であっても、その何年にも亘る連なりを見ていると、書き手の生の時間の持続性のようなものが感じられる。
 西田幾多郎は、明治三十年二十七歳のときから七十五歳で亡くなる昭和二十年六月まで日記を書きつづけている。全集では明治三十三年だけが欠けている。
 明治三十七年は七月二日以降の日記がない。前月、弟の憑次郎が日露戦争のために出征し、八月には旅順で戦死する。同年十二月二十五日付親友山本良吉宛の書簡には、山本からの「親切なる慰藉の御手紙」への謝辞を一言記した後、「理性の上よりして云へは軍人の本懐と申すへく當世の流行語にては名譽の戰士とか申すへく女々しく繰言をいふへきにはあらぬかも知らねと 幼時よりの愛情は忘れんと欲して忘れ難く思ひ出つるにつれて堪え難き心地致し候 昨日は満身元氣意氣揚々として分れし者か 今は異郷の土となりて屍たに収むるを得す 松林寂寞寒風梢を吹くの處 一本の新墓標の前に一束の草花を手向けて泣くより外になき有様 人生はいかに悲惨なるものに候はすや」と、弟を失った切々たる悲嘆を吐露している。同年八月以降の日記がないということは、弟の戦死の報を受けた後、日記を書きつける気力さえ失っていたということであろうか。
 翌明治三十八年元旦の日記には、「去年は余の一身にとりては實に不幸の年であつたが、今年はどうか幸福でありたいものだ」と記している。そして、四日の旅順陥落の翌日五日、金沢の街中では旅順陥落祝賀会が催される日、「午前打坐。昨夜来余の心甚惑ふ。余は自己を知らず、徒に大望を抱けり。併し今は余が擇びし途を猛進するの外なし。退くには余はあまりに老いたり。」午後打座。正午公園にて旅順陥落祝賀會あり、萬歳の聲聞ゆ。今夜は祝賀の提燈行列をなすといふが、幾多の犠牲と、前途の遼遠なるをも思はず、かゝる馬鹿騒なすとは、人心は浮薄なる者なり。夜打坐。雨中にも關せず、外は賑し。」と書きつけている。
 同月十日には、「今日は金澤の諸學校連合にて午後五時より旅順陥落祝賀の大提燈行列を行ふといふ。余は此の如き擧には不賛成なり、ゆかず」と記している。一方、同日、「夜夏目氏の「吾輩は猫でござる、まだ名はない」を讀む」とある。『吾輩は猫である』は同年一月から『ホトトギス』誌上に連載されはじめたばかりであるから、その連載第一回目を読んだということであろう。読後の感想は何も記されていない。ただ、二月二十一日にも「夏目氏の(猫で御座る)の續篇をよむ」とあるから、面白いとは思っていたのであろう。その二日後の十二日にはプラトンの『ソフィスト』を読みはじめ、十七日に読了している。十九日、『新小説』に掲載された泉鏡花の『わか紫』を読み、「面白し」と記している。二十日からは、デカルトの『哲学原理』をドイツ語訳で読みはじめ、二十七日にも「デカートをよむ」とあるから、同書を一週間読み続けたのであろう。
 西田の乱読・多読は若き日からのことだが、それには驚かないが、どんな状況のなかで何を読んでいたかは興味深い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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