内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

日本の中の世界史 ― 日本におけるキリスト教の世紀

2019-01-18 23:59:59 | 講義の余白から

 「近代日本の歴史と社会」という科目のことは先日14日の記事で話題にしたが、その前期の期末課題は、簡略化すると、「16世紀後半から17世紀前半にかけてのいわゆる「日本におけるキリスト教の世紀」の一断面を当時日本に在住した西欧人の視点から叙述せよ」となる。この視点は、実在の人物のそれでもよいし、架空の人物のそれであってもよい。ただ、架空の人物を選択する場合、歴史的にそのような存在がありうるような条件設定を答案の中に示さなくてはならない。答案の採点は今日明日行うので、総評を述べるのは採点終了後にする。
 このような課題を与えた背景には、日本史を世界史の中に位置づけるという視座と同時に、やはり14日の記事の末尾で言及した岩波書店の『シリーズ 日本の中の世界史』に実現されているような「日本の中に世界史を発見する」視角という二重の問題意識がある。日本固有の歴史的特異性をそれとして認識することももちろん大事だが、日本国内における出来事を世界史的視野の中で見直すことも、少なくともそれと同じくらい大事な課題であるだろう。
 このように言えば、その表現の類似性から、戦中、京都学派によって喧伝された「世界史の哲学」を想起される方もいるだろう。これは学部の一科目の目的意識を超脱することではあるが、私個人としては、この「日本の中の世界史」という問題視角から、「世界史の哲学」を批判的に読み直すという意図もそこには織り込まれている。
 日本におけるキリスト教の世紀というテーマについて一言加えておけば、日本の中に世界史を読むためには、例えば、渡辺京二の『バテレンの世紀』(新潮社、2017年)の「プロローグ」の中の次のような認識がその出発点となる。

ポルトガル海上帝国と結んだイエズス会によって強力なキリスト教宣布が行われることで、日本とヨーロッパとの第一の出遭いは広範な世界観的・思想的意味合いを帯びた。日本人はいわばキリスト教という姿見に映ったおのれを発見したのである。キリスト教を媒介とした日本とヨーロッパの相互認識は、むろん対立や相違をかき立てはしたが、共感や相似を含むものでもあったことを忘れてはならない。












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