今日が修士一年の演習の前期最終回。後期は研究休暇のため演習は担当しないから、これが私にとって今年度最後の修士の授業であった。出席者は15名。先週に引き続き、事前に課題として与えておいた二つの問いに一人ずつ答えてもらった。
今日の記事では第一問のみ話題にする。その問いは、「文化や宗教によって異なる食習慣は、それぞれ尊重されるべきか」。
出席者全員が「尊重されるべき」という答え。その根拠を一言でまとめれば、「互いに違いを認め合わなくてはならないから」ということになる。ただ、自分としてはとても受け入れがたい宗教的戒律はあるし、それがその国あるいは文化にとっていくら伝統的な食習慣であっても、やはり自分には受け入れられないものはある、というコメントを加えた学生もいた。
ただ一人、病欠したが自分の意見をメールで送ってきた学生だけが、今日の動物権利や動物福祉の考えに反する食習慣を、文化・宗教を根拠に認めることはできないという主旨の反対意見を提示していた。この学生は日頃からラディカルな意見を敢然と主張するのだが、宗教が引き起こしてきた争いごとには特に批判的で、本人の言葉をそのまま引用すると、「宗教を除外するべきです。 なぜなら宗教は時代遅れで世界中で多くの災害を引き起こしてきたからです。私は、次に進む時が来ていると思います。」
これには当然反論もあるだろうが、本人が欠席だったので、教室では私が意見を代読しただけだった。これは大きな問題で、軽々には答えられないが、問題は宗教そのものにあるのではなく、その名の下に正当化された非宗教的な動機にこそある、というのが私見である。
学生たちの発表の中で私が特に評価したのは、「文化や宗教もその諸習慣も、時代の変化や他の文化や宗教との関係によって変わりうる」という意見だった。他の学生はそれぞれの文化や宗教を固定的に捉えていたのに対して、この意見を発表した学生だけがそれらの可変性が将来への展望を積極的に開く可能性をもっていることを主張していた。
食料危機、気候変動、生態系破壊などが地球規模で深刻化しつつあるなかで、私たちがこれまで自明としてきた食習慣及びその他の諸習慣の見直しを当事者として迫られていることは確かで、それに応じて文化や宗教も動態的に捉え直すことも私たちに要請されている。
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