内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

曖昧で軽い「主体」たちが跳梁跋扈する国、ニッポン

2021-11-16 12:56:37 | 哲学

 来週の木金にパリ・ナンテール大学で開催される日本哲学に関する国際シンポジウムで「主語・主観・主体」について発表する。今回のシンポジウム全体の主題は、西洋哲学の諸概念が翻訳を通じてどのように日本語に受容されたか、という問題である。それぞれの発表者は、いくつかの関連概念の受容史に即してこの問いに答える。
 引き受けたテーマについては、ここ数年数回口頭発表し、論文も数本書いている。今回は、一般的・概説的に受容史について論じるのではなく、具体的な使用例から論点を引き出すという形に徹する。最終的な結論はすでにはっきりしているのだが、そこに至る議論の道筋に具体的な道標を立てながら話す。今週末には発表原稿とスライドを一気に仕上げてしまおうと思っている。
 このテーマで話すことを依頼されたのは今年の春先のことで、以来折に触れて再考を繰り返してきた。その再考過程の一環として「主体」という語の使用例を多様な文献から拾い集めていて、だんだん憂鬱になってきた。「よくもまあ、こうテキトーな使い方ができるものだ」と慨嘆せざるを得ないことが多かったからである。実際、sujet は、明治以降に受容された諸概念の中でもとりわけ「日本的な」変容過程を経ている。
 まさにだからこそテーマとして取り上げるに値するとは言える。しかし、非哲学的な文脈での枚挙に暇がないほどの具体的な使用例は、哲学本来の問題圏域を離れ、日本近代精神史に固有な特異な問題の一つとして取り上げるべきなのではないかとさえ思われるほど、広範な問題領域と関わり合っている。それらの使用例は、一言でいうと「軽い」のである。「主体的」とか「主体性」とか、ほとんど羽毛のように「ライト」な感覚で使われているような印象を受ける。
 ただし、使っている本人は、「自主的に」、「自分から進んで」、「自分の責任おいて」などよりも、「主体的に」とか「主体性において」と言ったほうがなんとなく重々しく意味ありげに思えるから使っているだけのように見えることが多い。そのご本人が主体概念について熟考したことがただの一度でもあるのかどうか、どうも心もとない。
 日本におけるこれら軽量級の「主体」たちの依然たる跳梁跋扈は、そして「主体の死」がおフランスなどで喧伝されたときにはその尻馬に巧みに乗ってみせるというお家芸を発揮したに過ぎず、そのことも今となっては忘却されているという軽佻浮薄さは、果たしてかつてただの一度でも日本に主体が存在したことがあったのだろうかと疑わせずにはおかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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