今様とは何だったのか、誰が今様の担い手だったのか。植木朝子・編訳『梁塵秘抄』の「解説」からこれらの問いの答えを以下に摘録する。
「今様」とは、現代的だ、当世風だ、目新しいといった意味の言葉で、それを当時の最新流行の歌謡に用いた早い例が『枕草子』『紫式部日記』に見られる。
それから百六十年ほど経って、後白河院は『梁塵秘抄』を編む。本来歌い捨てられるはずの当時の流行歌に夢中になった院は、遊女や傀儡女など身分の低い者をそば近くに召して今様を習い、喉を痛めて湯水も通らなくなるほど熱中した。『梁塵秘抄』がほぼまとまったのは嘉応元年(一一六九)、院四十三歳のときである。
この後白河の時代が今様の爛熟期に当たり、以後、今様は衰退の一途をたどり、鎌倉時代半ば以降は、宮廷行事の一部に残るだけとなり、江戸時代にはほとんど忘れ去られてしまった。
今様には、それを歌うことを専門とする女性芸能者がいた。遊女・傀儡・白拍子である。
遊女は、水上交通の要路に住み、小舟に乗って旅客のいる船に近づいて遊芸に興じた。
傀儡は、陸路の要衝を本拠としつつ漂泊流浪した芸能者であった。男は狩猟を主な生業とするが、曲芸や幻術を行い、木偶を舞わせるなどの芸を見せることもあった。女は美しく装って、歌舞を行い、しばしば旅客と枕席を共にした。
遊女と傀儡の女性は、今様を歌い、枕席に侍るという点ではよく似た芸能者であるが、女性だけで集団を作る遊女と、男性とともに集団をなす傀儡、水辺の遊女と陸地の傀儡といったように、対象的な一面も持っている。
白拍子は、水干に立鳥帽子、鞘巻を帯びた男装の女性芸能者で、本芸は舞にあり、足拍子を踏みならしながら旋回するところに特徴があり、遊女や傀儡よりやや遅れて登場した。
彼女たちがどのような声でどのような節を付けて今様を歌ったのか、今となっては知る由もないが、『更級日記』では、足柄で出会った遊女の歌声を「声すべて似るもなく、空に澄み上りて」と表現している。
今様は、細く高く空に澄み上るような女声で歌われることを理想とした歌謡であった。
これらのことどもを思い合せながら、昨日の記事に引いた法文歌を口ずさめばさらに感興も増す。