内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

セレンディピティ serendipity と「ありのすさび」

2024-08-28 09:54:16 | 読游摘録

 今年に入ってこのブログでも何度か話題にしたNHKドラマ『舟を編む ~私、辞書つくります』のなかで「セレンディピティ serendipity」という言葉が使われるシーンが何度かある。『図書館情報学用語辞典 第5版』の説明によると、「偶然に思いがけない幸運な発見をする能力、またはその能力を行使すること」である。「この能力により、失敗した実験の結果から予想外の有用なデータや知識を得たり、検索結果を点検しているときにノイズの中から偶然に当初の目的とは異なる価値のある情報を発見したりできる。ただし、すべてが偶然や幸運に依存するのではなく、有用なデータ、情報に気付くための基盤となる潜在的な知識や集中力、観察力、洞察力を要する。英国の小説家、ウォルポール(Horace Walpole 1717-1797)がスリランカの昔話『セイロン(Serendip)の三王子』(Three Princes of Serendip)にちなんで造った語といわれる。」(同辞典)
 ドラマでは紙の辞書の効用としてセレンディピティが強調されていた。確かに、電子辞書やオンライン辞典だと、探している当の語以外に偶然に目が行くという機会は乏しいのに対して、紙の辞書で調べていると、調べている語の付近に立項してあり、かつその語とはまったく繋がりがない語にも目が行くことがよくある(少なくとも、私自身にとってはそうである)。
 ただ、それがいつも「幸運な発見」とはかぎらない。ときには、不意に痛棒を喫することがある。今朝がそうだった。
 丸谷才一の『新々百人一首』(新潮社、一九九九年)を拾い読みしていて、大弐三位(紫式部の一人娘)の百人一首にも採られている歌「有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする」に言及している箇所があって、この歌の解釈を手元の古語辞典で片っ端から調べているときだった。久保田淳・室伏信助=編『全訳古語辞典』(角川書店、二〇〇二年)の見開き左頁中段にある同歌の分析を読み終えて、ふと右側頁下段に目が行った。
 そこで目に飛び込んできた項は「ありのすさび【有りの遊び】」であった。「あることに慣れてしまい、ありがたいと思わなくなってしまうこと。生きていることに慣れてしまって、いいかげんに暮らすこと。」
 まいった。これ、今の私のことに他ならない。
 同項には例として『古今六帖』の歌が挙げてある。

ある時はありのすさびに語らはで恋しきものと別れてぞ知る

(そばにいるときは、いることに慣れてしまって親しく語りあうこともなく、(死に)別れてから恋しい人だと気がつくものだ。)