内的自己対話-川の畔のささめごと

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科学の進歩が人間と動物の境界をますます相対的なものにしているのに、人間の動物に対する絶対権が揺るがないのはなぜか ― フロランス・ビュルガ『動物、我が隣人』より

2024-07-29 17:36:23 | 哲学

 諸科学が生物学的 ・遺伝学的および行動学的にますます精密な仕方で人間と動物の親近性を明らかにしているのに、それらの科学的知見が動物の倫理的・存在論的立場にはいささかの変動も引き起こさないのはなぜか。ビュルガは1997年の著作でこう問う。
 しかし、この点については今日の観点から注を一つ加える必要がある。なぜなら、2015年のフランス民法改正において、動物は「感覚性を備えた存在」(un être vivant doué à la sensibilité)であることが認められ、その他の動産(自家用車や家具など)とは区別されなければならないと規定されたからである。この規定は、動物は苦痛を感じる一個の主体であることが法的に認められたこと意味する。こう留保した上で1997年の著作に戻ろう。
 人間と動物との心理・生理的な親近性が明らかになればなるほど、動物の実験的使用の適用範囲は拡大された。異種間の臓器移植はその顕著な例の一つである。この間変化があったのは、動物の利用の仕方、より効率よい活用のための方途であって、動物を人間のために活用するという原則そのものが問い直されることはなかった。人間と動物の親近性の科学的証明がいかに進歩しても、動物は人間に従属するものであるというヒエラルキーの原則が疑われることはなかった。
 人間と動物との区別の限界域が量化も局所化もできないものとして絶えずさらに遠くに押しやられても、動物界に対する人間の絶対権は保持されたままであるように思われる。
 かくして、人間と動物との伝統的区別の諸基準が科学によって根本的に問い直されているにもかかわらず、人間の動物に対する存在論的優位は堅持され、動物たちを利用可能な財産という立場から解放する可能性をどんな生命一元論にも期待することはできそうにない。結局、動物たちは、魂なき身体であり、「(自由に)利用・処分可能なもの(disponible)」のままである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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