内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「身にしむばかりあはれなるらむ」―『和泉式部集』より

2024-08-23 15:32:21 | 詩歌逍遥

 

 毎年のことながら、新学年を目前にした夏の終わりには少し憂鬱になってしまいます。数ヶ月前には思いもよらなかった重責を新年度から負うことになり、この夏は今までにもまして気が重く、爽やかな夏空が恨めしくさえ感じられます。個人的にも心にかかること多く、気持ちは深く沈みがちです。
 そんな暗く浮かない気分のときには、いささかの束の間の慰藉を求めて、あてどなく日本の古典を、特に詩歌の世界を逍遥します。
ここ数日は『紫式部集』を眺めていました。すでに何度も読んでいるのに、身に沁みる言葉に今またあらためて出会うことで少しこころが慰みます。儚き慰みではありますが。
 今日は、仕事机に向かったまま手を伸ばせば届く書架に『紫式部日記 紫式部集』と並んで置かれている『和泉式部日記 和泉式部集』(いずれも新潮日本古典集成)を手に取り、ぼんやりと式部集の頁をめくっておりました。
 本書に収められているのは『宸翰本和泉式部集』で、集と続集との重複歌も含めて千五百首余りの歌を収める岩波文庫版『和泉式部集・和泉式部続集』より歌数もはるかに少なく、十分の一以下の百五十首に過ぎませんが、『集・続集』に収録された歌との異同もあり、それはそれで興味深くもあります。一例を挙げましょう。

秋吹くはいかなる色の風なれば身にしむばかり人のこひしき

 宸翰本の第一四歌です。この歌、岩波文庫版には一三三・八六九に重複して掲載されており、第五句がどちらも「あはれなるらん(む)」となっています。しかも八六九のほうでは、第二・三句が「いかなる風の色なれば」とあり、「色」と「風」が一三三とは入れ替わっています。古典集成の校注者野村精一は、頭注で「これらの異同はむしろ推敲過程を示すものか。単なる異伝の重出ではないようである。」と推測している。これらすべてを変奏曲のように楽しむのも一興ですね。
 ところで、この一首、紫式部のお気に入りだったようで、『源氏物語』のなかで数回言及されています。校注者がこぞって挙げているのは、「秋吹くはいかなる色の風なれば身にしむばかりあはれなるらん(む)」のほうです。『詞花和歌集』でもこのかたちで秋の部に採られています。この勅撰和歌集が編纂されたのは紫式部や和泉式部が生きた時代から百年ほど後のことです。紫式部が目にしたのはやはり「あはれなるらん(む)」のほうだったでしょう。
 ちなみに、『定家八代抄』(上・下、岩波文庫)には、「人のこひしき」のほうが恋歌として採られています。このかたちも和泉式部自身の手になるものなのか、宸翰本を編纂した後代の誰かの手になるものなのか、いまところ、決め手はないようです。
 塚本邦雄は『淸唱千首』(冨山房百科文庫、一九八三年)で「あはれなるらむ」のほうを採っています。

身に沁むとはもと「身に染む」ゆゑに、秋風の「色」を尋ねた。「秋風はいかなる色に吹く」とでもあるべきを、逆順風の構成を取つたことによつて、思はぬ新しさを添へた。二十一代集に同じ初句を持つ歌は他にない。この作者ならば靑・紅・白とほしいままに色を決め得るだらう、それも格別の眺めだ。しかも疑問のままで終るゆゑの深い餘情。

 最後に「あはれなるらむ」のほうを掲げて再度味わってこの記事を締めくくりたいと思います。

秋吹くはいかなる色の風なれば身にしむばかりあはれなるらむ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「眼を閉じて鉛筆のさきで机をなぞるとき、私にとっての鉛筆」(シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』より ―「ことばの花筐」(3)

2024-08-23 09:30:58 | 読游摘録

Ce que le crayon est pour moi quand, les yeux fermes, je palpe la table avec la pointe — être cela pour le Christ. Nous avons la possibilité d’être des médiateurs entre Dieu et la partie de création qui nous est confiée. Il faut notre consentement pour qu’à travers nous il perçoive sa propre création. Avec notre consentement il opère cette merveille. Il suffirait que j’aie su me retirer de ma propre âme pour que cette table que j’ai devant moi ait l’incomparable fortune d’être vue par Dieu. Dieu ne peut aimer en nous que ce consentement à nous retirer pour le laisser passer, comme lui-même, créateur, s’est retiré pour nous laisser être. Cette double opération n’a pas d’autre sens que l’amour, comme le père donne à son enfant ce qui permettra à l’enfant de faire un présent le jour de l’anniversaire de son père. Dieu qui n’est pas autre chose qu’amour n’a pas créé autre chose que de l’amour.

眼を閉じて鉛筆のさきで机をなぞるときの、わたしにとっての鉛筆。――わたしはキリストにとってその鉛筆でありたい。神と、われわれに託された創造の一部とをつなぐ仲介となる可能性が、われわれにはある。神がわれわれを通して神自身による創造を認知するには、われわれの同意が必要なのだ。われわれの同意をもって神はこの奇跡を実現する。わたしの眼前のこの机が神に直視されるという比類なき幸運に浴するには、わたしが自身の魂から退くすべを知るだけでよい。創造主なる神自身がわれわれを存在させるために退いたように、神を通らせるために退くという同意。神がわれわれのなかで愛しうるのは、この同意を措いてほかにない。この双方向からの動きに、愛以外の意味はない。子どもが父親の誕生日に贈りものができるようにと、父親が子どもに小遣いを与えるのに似ている。愛以外のなにものでもない神は、愛以外はなにも創造しなかった。(岩波文庫『重力と恩寵』冨原眞弓訳)